筆者は経営の専門家ではないし、自分の店を持ったこともない。が、自分の店を持っている・始めた・持っていた人たちと話す機会は多かったし、いくつかの飲食店で実際に勤務したことがある(自営業の経験自体も少しある)。その肌感というか、自分が感じた空気を根拠に少し書いてみたい。
まず事実として飲食店は潰れる。これもまあ言ったもの勝ちみたいな主張が好き放題に飛び交っている分野で、さっきネットで軽く調べてみたところ、3年生存率で15~50%、10年生存率で3~10%くらいという、実に幅の広い数字が主張されていた(店が存続している割合を生存率と俗称しており、たとえば「3年生存率30%」なら「開業した100店舗のうち3年後も営業しているのは30店舗」という意味)。筆者の当て推量だと、3年で3分の1、10年で10分の1、もっと大雑把には年数で割ったくらいなんじゃないのという気がする(もちろんこれ、田舎と都会で格差が相当あるはず)。どの数字を信用するとしても、飲食店を開業するには「潰れて当然」(というか「普通」は潰れる)という認識が必要になるのは間違いない。当然、苦しくなったときにどこまで粘るか、辞めるとなったらどうやって清算するかということも、あらかじめ考えておかないのは無策に過ぎる。
ではどうして飲食店が潰れるのかというと、古い個人店に後継ぎがなく閉店するのを除くと、筆者が知る限りほとんどの理由は「客が来ない」「(本人に限らず家族の誰かが)体を壊した」のどちらかで、ごくまれに「共同経営者(というかスポンサー的な人)が撤退した」「災害(もらい火事含む)にあって再建できず」「入居先が取り壊しになり移転できるだけの余裕(ないし気力)がない」というのを聞くくらい(資金繰りが云々とか、したり顔で語られるような純経営的な理由で廃業した飲食店は、銀行が破綻した時代のもの以外には聞いたことがない)。だから、飲食店を開業してできれば長く続けたいと思っているなら、客を途切れさせないことはまず第一に考えなければならないし、どうやって体(や所帯持ちの人は家庭)を壊さずに営業を続けるか真剣に検討しておかなければならない。
客を途切れさせない方法に正解はないが、小規模な個人経営の大衆店には特有の事情がある。それはいわゆる「常連客」の存在の大きさと一見客の入りにくさである(例外は「観光地の飯屋」の一部と、ゴルフ場とかスキー場とか「施設内に併設の飯屋」くらいだと思う:駅の立ち食いソバ屋だって、何度か通えば「この時間にはこの面子」みたいなイメージがなんとなくはできる)。これは都心の店舗でも同様なのだが、小さい店は売り上げの中で特定少数の客が占める割合が高い。一見客中心で商売を回そうと思ったら、見つけやすい場所・ぱっと見で客を呼べる外観・郊外なら入りやすい駐車場or繁華街なら駅からの近さが必要で、家賃や初期投資が高くなる。少なくともそういう傾向があるということは多くの人に納得してもらえると思う。ならば常連客をある程度抱えてかつ新規客を逃さないようにしたい、と考えると、客同士の関係の調整(店と客の関係ももちろん重要だが、それ以上に)がどうしても必要になる。常連客を「いい気分」で帰し新規客を「引かせ」ない配慮ができていれば、料理自体はそこそこでも店は繁盛する。
反対にそこのケアを放棄するなら、コストパフォーマンスなり絶対的パフォーマンスなりで、他を圧倒できるものが何か必要になる。そしてこの「他を圧倒」というのはかなり高いハードルなのだが、えてして甘く見られがちである。自分の店のジャンル(ニッチ)の中での圧倒ではダメだし、ジャンルの中で「上位」であるだけでは話にならないのである(どこか有名な店から暖簾を分けてもらったならともかく、新規で開店して知名度のある他店と競争してゆくためには)。つまりたとえば、自分が寿司屋だとしたら「この辺の寿司屋ではウチが一番」ではどうにもならず、鰻屋にも天ぷら屋にも「勝つ」必要があって、ジャンル違いの勝負に勝つというのは並大抵のことではない(ジャンル内で押し切ろうと思うならブッチギリで勝つ必要がある)。
また高級志向が強まるほどに、勝たなければならない相手の地理的な範囲が広くなることを忘れてはならない(雑に軽く見積もったとしても、「月に1度のごちそう」を出す店なら近隣の市町村くらい、「年に数度の特別な日」に使って欲しい店なら都府県内全域くらいは、具体的なライバルとして想定すべきだろう)。商売を真面目に考えるなら、現在シェアを持っているところだけでも、実際に回って食事して、どんな武器を持っているのか知り、どうやって勝つのか見通しを立ててから先に進むべきだろう(繰り返しになるが、パイには限りがあって、普通は需給が飽和した状況に割り込む形になるから、競争相手よりも「明らかに優れた」何かを提供し「続け」なければシェアは取れない:またもう一方で、自分がつかみ取らなければいけないパイ=お客さんはどんな人たちなのか、という情報も、事前に得ておかなければならない)。
ともあれ、大衆商売をする以上客数はどうしても必要である。同じ赤字なら、客が来なくて固定費と廃棄ロスで赤くなるよりも、ガンガンに安売りして赤くなった方がずっとマシである(安売りしても客が入らないなら早めに撤退した方がよい:ここで現実を見ないならお花畑の中で枯死を待つ以外の道はない)。客さえ入っていれば何かしら仕掛けることはできるが、誰も来ない店では(客引き以外)何をやっても無駄である。健康に寝て起きて食べていないといい仕事ができないのと同様、たとえ「トントンにしかならない」客が半分だったとしても、客が入っていない店は回らなくなる。オシャレな店をオープンすれば、開店直後は物珍しさで人が入るかもしれないが、客に「実利」を提供できなければ定着はしない(「飽きられる」という表現は間違っていると思う)。
似たような話として筆者は、いわゆる店の看板メニューというのは、もちろん客に対して何かしらアピールのある商品であるべきだが、店のスタイルを支えるものであるのがより望ましいと思う。たとえば中華屋なら、タンメンの類がある程度出てくれないとスープを取る手間と費用がペイしない(他で触れたように数が出ないならガラポンで十分だと思いはするが、もし取るのなら)。フライヤーを入れたなら揚げ物もぜひ出て欲しいメニューになるだろう。スパイス類(長く置くと風味が悪くなる)やハーブ・香味類(これも鮮度が大事)や複合調味料(自分で仕込む場合はとくに)なんかでマイナーなものを使っている場合も、それなりの数が出てくれないと全体の計算が立たなくなる(大量に買ったときに価格面のメリットが大きい食材でもある)。変わったところでは、中華屋のザーサイ(ホール缶詰)やキクラゲ(業務用大袋)なんかも、割高な少量包装モノを使いたくないなら数を出すしかない(ザーサイの場合ホールの方が味付けの自由度も高い)。ワインや生酒を出す店の内部事情は知らないが、おそらくは、グラスワインなんかも数が出てくれないと大変なのだろうと思う。こういった「店の事情」を満足させつつ、客にも相応の「お得さ」を提供して、持ちつ持たれつで全体のメニューを回していけるような商品こそが「看板」メニューにふさわしいのではないか。
もうひとつ、重要かつ現実的な選択に、予約制にするかどうかというものがある。もし予約客しか来ないのであれば、厨房の仕事は段違いにスムーズになり、ロスも最小限にできる。集中していい仕事がしたいなら圧倒的なメリット、というよりはほぼ必須といってよいだろう。しかし予約制だと店の立ち上げ時期がとても大変で、多くの場合は、定期的に使ってくれるコネ客がいるか、有名店から暖簾分けした後独立する形、ヨソの店が閉店するタイミングを見計らっての出店など、特殊な条件が(できれば複数組み合わされてい)ないと成算を得にくいだろう。もちろん、夜だけ予約制とか、予約が入った日は貸し切り扱いとか、部分的な予約制を採用することもできる(VIPルームをもつレストランが日本にどれだけあるのか知らないが、2階が予約制の宴会場(ないし座敷)で1階が予約なしの普通の飯屋になっているところはけっこうある)。他に想定できる選択としては、持ち帰り(テイクアウト)注文の可否と配達サービスの有無だろう。テイクアウト(作り置きが難しい商品だととくに)は意外なほど厨房を圧迫し、業務量の調整効果がほとんどないので注意が必要(狭い店で売り上げを伸ばすには有効だが、厨房に相応の対応力が必要)。もしたとえば、扱っているのが押し寿司とか、菓子類+紅茶みたいな品物なら負担は少ないし、そばやうどんの店でパック入りのツユ+自分で茹でる麺みたいな構成のテイクアウトをやっているところもある(ただし「食料品等販売業」や「めん類製造業」などの許認可が必要になる場合があるので、事前に保健所に確認しなければならない)。
勝負ができるところとできないところもある。たとえば営業時間でいうと、個人経営の飲食店が24時間営業をするのは最初から不可能である。利便性の面で大規模チェーン店と比べたら勝負にもならない。価格面では意外にも、個人店がライバルになり得る。たとえば40年前(この記事を書いているのが2024年だから1984年)くらいに25歳前後で店を始めた人たちは、誰が何をやっても儲かったような時代にしっかりと貯え(店舗を買い取って賃貸でなくなっていたりすると強い)をして、その後の斜陽時代を(近所が1店1店減っていくのを横目に)生き延び、現在ではもう儲けを考えなくても暮らしていけるような状況になっているかもしれない(もちろん、みんながそうだとは言わないけど)。同じ個人店同士で、家賃と人件費をタダ扱いできる人たちと勝負をして、勝ち目なんてあるわけがない(このパターンに限らず「儲けなんて出なくていい」つもりの個人店にコスパで勝つのは不可能に近い:そのうえそういう人たちに限って、信じがたいほど勤勉でサービス精神に溢れていたりする)。ほかにもたとえば、いわゆる高級住宅街で最初からお金持ちな人が道楽(なりステータスなり社会貢献目的なり)でやっている店だとか、障碍者の雇用(ないし起業や経営)に補助金が出る自治体で(儲けを出すことではなく)営業を続けることだけを目指している店とか、普通のやり方で勝ち目がない店は、飲食業界にはけっこう多い(これがたとえば金物屋みたいな商売だと、道楽で店を出す人はほぼいないだろうが今度は大規模店と直接競合しなくてはならず、業種によって特徴は違えど「ラクな商売」なんてものは存在しない)。そう考えると「みんなに勝つ」必要なんて最初からなく、いろいろなところで誰かには「負けながら生き延びる」方策が重要なのだろう。
ただまあ、世の中で繁盛している飲食店が(小規模店に限っても)みんなこういうことをしっかり考えて実践しているのかというと、到底そうではない。運とか巡り合わせも大いにあるというか、オイシイ場所(地理的な意味だけでなくその地域での地位みたいなものを含む)をさっさと占めてしまった人たちが居座り(と言って聞こえが悪ければ勝ち残り)続ける傾向はどうしてもある。大規模な飲食店にしても、たとえば駅前のいい場所にどーんとマクドナルド(ハンバーガー業界トップシェアらしいので例に出しただけで他意はない)の店舗があったとして、ある日突然中身がモスバーガー(同2位らしい)に変わったとしても、商売の様子に大きな変化はないだろう(飯屋に限らず、たとえばファミリーマートがローソンに変わったとしても、便不便を感じる人は一定数いるのだろうが、たいていの人は気にもせず似たような買い物を続けるだけだろう)。結局、いい場所を先に取った人がより有利な商売をしているに過ぎない(まあ大企業同士だと、資金力とか調査力とか意思決定の速さとか、投資リスクを担保する利益回収力とか損切のノウハウとか、勝負すべきところがたくさんあって単にいい場所早い者勝ちみたいな理屈で動いているわけではあるまいけれど)。これは商売全般にいえることで、既存の商圏に「割って入る」ことを狙う人たちには相応の「売り」が必要になる(よほど時勢に恵まれれば別なのだろうが、近い将来の日本にそういう「いい時代」が来ることは考えにくい)。
コストパフォーマンスは技術的にも重要である。雇われの職業料理人から自分の店を持った人と、ハイアマチュアから直接開業した人で感覚は異なると思うが、一般的な飲食店の厨房では、技術を認められなければ高価な食材は扱わせてもらえない。安価でありきたりな食材でそれなりの「違い」を出せて初めて、高級な食材に挑戦できる。店に対してもそうなのだから、客に対してもおそらくそうなのだろう。使いたいものを使いたいだけ使って作る料理もごく一部にあるが、それは本当に積み上げのある高級店(少しでもいいものがあるなら値段なんて気にせず使ってくれと、客の側でも期待しているような)でしか通用しない話で、そういう店で働いている人たちは(やる気もないのに地縁血縁で入れられたボンボンでなければ)ちゃんと、今使えるものを使ってどれだけのものが作れるかという修行を積んできているはずである。また実際問題として、小規模店舗を支えてくれるいわゆる常連客、なかでも月に5回も10回も通ってきてくれるような人たちは、ある程度のコストパフォーマンスを示さなければ居着かない(店は彼らの「食生活」を担うのである)。自分のやりたいことを試し始めるのは、客にしっかり認められた後でというのが順番ではないか。
ただこのコストパフォーマンスは料理のことだけ考えて上げられるものでもない。筆者が(短い間だが)一緒に働かせてもらったある中国人店主(昔大きなホテルで料理長をしていた人)は、店の改装のときに自分で電ノコと電気ドリルを持って厨房の棚を作っていた。曰く「業者に頼むと費用が掛かる、自分でやれば安いから、その分お客さんのためにお金を使えて、店が繁盛するとみんなが幸せになる」(記憶頼りの要約)だそうな。水回りとか火を使うところとか、ケチっちゃいけないところがあるのは間違いないが、大金をつぎ込む必要がない場所だってかならずある(ただねぇ、中華屋の場合水回りだけでエラい金額かかっちゃうこともあるからねぇ:だからこそ安く上げられるところは自分の努力で出費を抑えていたのだと思うし、ケチっちゃいけないところにしても、どういう性能が必要なのか正しく理解することで過剰な出費は避けられるはず)。
ここは何とも言い難い部分があって、いわゆる「ふんだんに費用を使った」結果が必ず悪いものかというとそうではないのだろうが、少なくとも客の立場として見たときに必要なのは、貧乏臭い感じがしないことであって高級品「ばかり」を使っていることではないことがほとんどじゃなかろうか。ある一定の価格帯よりも下であれば、貧乏臭さだっていくらかは許容されるはず(さすがに、自動ドアが何年も壊れたままで「手で開けてください」の張り紙がボロボロになっている店なんかに行けば、筆者だって「いい加減直せよ」と思わないわけではないが、ドアが壊れているからという理由でその店に行くのをやめようと思ったことは一度もない:あくまで個人の経験に過ぎないけど)。もう一度繰り返しておくが、筆者も店の雰囲気作りが重要でないと考えているわけではない。すでに触れたように、費用をケチってはいけない場所があることも事実だろう。ただそれを口実にして(あるいは口実にされて)やたらと(あるいは散漫に)散財するのは、回り回って顧客(ともしいるなら従業員も)の軽視なんじゃないの、という気がしてならない。
ということで標題の話に戻るわけだが「コストパフォーマンス」ということを考えるのであれば、ようするにパフォーマンスに結びつかないコストを排除するべきなのである。とすると(客にとって)何がパフォーマンス(「満足度」であることもあれば「実利」であることもあるだろうし、場合によっては「見栄」であっても不思議ではない)なのかを、正確に見極めることはできないし人によって異なるものでもあるが、ある程度は想定してそれに集中した費用投入をすべきなのだろう。ここで客の目線に立てない人、わがまま「だけ」で商売をしようとしてしまう人が長続きしないのは、仕方のないことに思えてならない。もちろん、オーナーが自分の「贅沢」を店に持ち込んで悪いわけではないが、そこに混同があると面倒なことになるというか、客のためのパフォーマンスと自分のための贅沢をはっきりさせた方が、最終的な出費は同じでも納得感の見える活用の仕方につながるのではないか。
いっぽう、これは純粋に技術的な部分だが、他の「ものづくり」と同様、本当にいいものを出そうとすると(普通はA級品より多くの)B級品ができる。そういう志向でなかったとしても、一定水準のものを毎日出し続けるというのは大変な仕事である。筆者が知っているある焼肉屋では「特上」は「出せる日だけ」の扱いで早い者勝ちだった。寿司屋なんかでは値段を変えないまま「今日はいいものが入った」なんてことをやるのが普通のことだろう。筆者自身が厨房にいた中華屋でも、毎日同じ品質のモノなんて到底出せるものではなかった。麺屋が持ってきた粉モノが酷かったり、スープ用のガラでハズレを引いたり、前のシフトの人が飯炊きを失敗(単なるミスもあるが、ときには忙しすぎてほぐしのタイミングを逃すことも)したり、障害になるような出来事はいくらでもあった。それでもなんとか「最低限度」は毎日クリアするべく、自分で引いたラインを越えるための努力は怠らなかったつもりでいる(こういうときにも予約制でメニューは店に任せてもらえるような店は有利で、アレがダメならコレにするという対応をしやすい)。
それからたとえば、スープの原料費が高いなんて話も、ちょっと不思議な思いで聞くことがよくある。中華屋でも豪華なスープ(メニューとしての「高級スープ」ではなく、スープに材料費を多く使っているという意味)を使う店はあるが、そういうところでは二湯(アルタン:二番だしのこと)を取る。そして技術と手間と創意工夫で二湯に商品価値を付加している。いいスープを使いたいメニューがあるなら、それを実現するために他のところでやり繰りをして、持ち上げたいメニューを支えるのが最初にするべき努力だろう。
まあこれがわかれば苦労はしない。とくに、店がオープンする前からどんな人たちが常連になるのか、正確に言い当てられる人なんていない。しかし、傾向みたいなものはあるはずで、それはぜひ掴んでおくべきだろう。
もちろん筆者の感覚しか元にしない話ではあるのだが、客の流動性は単価が低いほど高く、単価が高いほど低くなるような気がしている。たとえば読者自身の話として、年に数回のごちそうを食べに行く店を、他にいい店ができたからと乗り換えるハードルはかなり高くないだろうか。そういう店には相応の思い入れ(一緒に行く人の分も含む)やある種生活の区切りのような役割があって、年齢層が高くなるほど(ということは年功序列がまだ生き残る日本では所得が高くなるほど)そういう傾向が強まるのではないかと思う。また学生街のように一定期間で人が入れ替わる街と、子育て世代中心の住宅街、一軒家が多い古めの住宅街なんかでは、嗜好が切り替わるスピードにそれぞれ差があるはずだろう。
家族連れ、というより要は小さい子供への対応をどうするかも、店の性格を決めるうえで大きな要素になる。ここで「受け入れはするが客の方で相応の配慮を」と考えるのは、たいてい悪手である。子供連れの客はそういう店を選ばないし、もし来店したとしても店が期待するほどの配慮をしてくれるとは限らない。受け入れるなら積極的に受け入れて最大限の対応を、受け入れないなら(酒を出さない店だと年齢制限まではしにくいだろうが、店の作りで最初から子供向けでないとわかるようにしておくなど)最初からそういう意思表示をしておくなど、明確な対応をした方が結局は(みんなが)得である。家族連れは単価もそこそこだがそれ以上に滞在時間が長い。客席が埋まって他の客を待たせるor帰す事態というのも、想定しておかなければならない(ここも、予約制なら何時までと読めるんだけど:必ずその時間が守られるわけではないにしても)。もちろん、家族連れと非家族連れの両対応を目指すというのも無条件で却下すべき選択肢ではない(選択ができないまま「どっちも来てくれるといいな」と夢想しているだけの状況が悪いのであって、両方を選ぶという判断も当然あり得る)。ただそれを選ぶなら、実現のためにかかる(おそらくはかなり大きい)コストをどうやり繰りして、実現したメリットをどうやって周知し、最終的に店の利益としてどう回収するのか、現実的な検討がまず先にあるべきだろう。
アルコールを出す出さないも、商売に与える影響は大きい。利幅の大きい商品だから置きたいオーナーは多いと思うが、当然ながら、いつでも行儀よく酒を飲んでくれる客ばかりではない。自分のところで飲まなくても、営業時間によっては、飲んだ後のシメで来店する客がいるかもしれない(筆者が知っている店で深酒した人お断りを明記しているorしていたところが何軒かある)。また料理の種類によっては、たとえばフレンチやイタリアンの店でワインを置かないというのはいかにも寂しいし、ドイツ料理を食べたらビールが欲しくなるのは人情というものだろう(中華屋は・・・日本人が経営してるトコだと黄酒を置いてないこともけっこうあるね、ビールはたいていあるけど)。ただこれ、出すにしても相応の配慮は必要で、世の中には下戸もいれば禁酒している人もいるし、運転代行を呼べない車両(バイクとか大型とか)を運転して来た人もいれば、宗教上の理由で飲んではいけない人もいる。酒を飲む人専用の店(例外はあるが、バーとか居酒屋ってのは最初からそういう店と見なしてよろしかろう:これもまあ微妙なところはあって、たとえば焼き鳥屋とかおでん屋に下戸が行ってはいけないかと聞かれると、少なくとも店側に無条件で「来なくて当然だよな」と言い放てるほどの根拠はなさそうに思える)を作るのはオーナーの勝手だが、一見の客にもそうとわかるようにしておく(または最初から一見の客を明示的に断っておく)のは店の責任で、ただメシを食いに来ただけの人にさもそれが当然かのように酒の注文を催促するのは、タカリとかボッタクリの類であってマトモな商売では到底ない(客単価を上げたいなら、変な押し売りをしないで(ちゃんと明示したうえで)席料取るなり食べ物を値上げするなりすればいいだけじゃないかと思えてならない:店に都合があるならそれをきちんと客に伝えるのが責任だろう)。
先に家族連れの話に少し触れたが、客の人数構成によっても、望まれる店のスタイルはけっこう違う。客のグループ内で、人数が増えるほど「仕切っている人」の発言力が大きくなる傾向があり、それに応じてたとえば平成の学生街なんかには「とにかく幹事にラクをさせて、なんとかしちゃう」感じの飲み屋が多くあった。住宅街でも、昼時に高めの単価で主婦が連れ立って入るような店や、オフィス街でサラリーマンが部下を連れてくるような店では、グループの中心メンバーになっている客の満足度に狙いを定めたサービスを意図的にしているところがある(傾向としては、キャバクラやホストクラブにより接近したやり方になる:どちらも「高単価の飲食店」として圧倒的なシェアを持つ業態で、それ以外の飲食店でも単価を上げようとするときには、そのコンセプトが有用であることは疑いの余地がない)。単独客が多い場合は滞在時間に両極端の考え方があり、サっと出してサっと食べてもらい回転をよくする方針の店もあれば、ある程度長居してもらう前提のやり方もある。家族連れを含むグループ客は一定の滞在時間で単価が打ち止めになりがちだが、単独客の場合は長居しただけ何かしら注文することが多く(パソコン作業とか読書とかに没頭していない限り:席料を取っていないなら、極端な場合はお断りしても仕方なかろう)、また長居したい需要もそれなりにある。
営業時間も悩ましい。筆者の見立てでは、食事(あるいは飲食の場)に日々の幸せを見出すような人たちは、平日の昼間か夜遅い時間に多いような気がしている(趣味としての外食には、まとまった時間を費やさなくて済むという特異な性質があり、まとまった時間を作りにくい人の趣味になる傾向もおそらくある:どのみち必要な食事時間と兼用にできるのも大きい)。休みの日にごちそうを食べようという人たちも一定数いるだろうが、そういう飲食機会は外出なり遠出なりと結びついていることが多く、どこにも出かけずただ食事だけ(であれば家で凝った料理でも作りたくなりそうなものだし)とか、出かけはするけれど家の近くまで戻ってから食事(これは考えにくいよねぇ)とか、そういうパターンにはあまりなりにくいのではないか。あるとしたら、何かの節目(子供が入学したとか単身赴任の親が帰ってきたとか)に家族で食事に行くなど家での行事+外で食事の形や、いわゆる「デート用」の店みたいな形になるのだろう。反対に低めの単価で回す店なら、ある程度客数を見込める立地(学生街とかオフィス街とか)で、早さを志向しながら回転で勝負する必要があるだろう。いいもの志向と回転率の両立を目指すやり方ももちろんあり、以前札幌の中心部にあった(今もあるのかどうか知らない)焼豚丼の専門店なんかは、客の相手は一切せず手際のよさとメニューの少なさでどんどん料理を出し、ちょっといい昼をサっと食べてまた仕事に戻ろうという人達でかなり繁盛していた。あの店員数であの客数を捌いていたのは、入念な準備と高い技量の賜物なのだろう(この辺はまだ個人の技術がモノを言う領域で、チェーン店が同じことをやろうとしたら単価がハネ上がるだろうし、熟練のない店員ばかりの構成で同じことをしようとしても、人数ばかり嵩んでしまうだろう)。
とまあ通り一遍の話ばかり並べる格好になったが、どういう方針を採用するにしても、またいったん立てた方針を変更せずに済むようなことはほとんどないであろうけれども、客になってくれる人がどういう事情や都合を持っているのかということにまずは興味を持ち、それに応える意欲を持って現実的な働きかけをすることが、どうしても必要になる。
このコーナーのオマケで何度か触れているように、大衆飲食店の支出はおよそ、変動費(おもに材料費)3、固定費(おもに家賃水道光熱費)3、人件費(オーナーシェフなら自分の給料含む)3、それ以外(設備投資分とか内部保留分とかローンの金利とか宣伝広告費とか)0.1~0.5くらいのバランスになる。以下はこれを受け入れたうえでの話なので、異なった支出構造(たとえば持ち店舗があって家賃をほぼ無視できるとか)の店では通用しないことを念頭に置いてほしい。またボトムプロコーナーのオマケでも触れている通り、大衆飲食店では、価格の高いメニューほど利益率低で原価率高、価格が安いメニューほど利益率高で原価率低になる傾向があり、アルコール飲料は一般に食事メニューよりも利益率が高いが、例外的に原価スレスレで出している店もある。
750円の料理が200円の「利益」を出しているなら、950円に値上げすれば倍の400円儲かる、という主張がある。どうやったらそんなそんな理屈になるのか想像もつかないが、これを真に受ける人までいるらしい。750円のメニューを200円の材料で作っていたとして、他の店が300円の材料で作っている950円の料理にどうやって勝つのだろうか。そもそも、飲食店というのは客が途切れず回っていないと儲けられない。支出の3分の2近くは客がいてもいなくても出てゆくお金なのだから、人(当然自分を含む)と設備と建物を「遊ばせる」時間を減らすのが収支改善の第一歩なのである。商品価値はそのままで価格だけ上げれば客が減るのは当然で、付加価値をつけるには当然元手が要り、その付加価値が客数維持に結び付くかどうかはやってみなければわからない。
この辺のいわゆる「消費者心理」は難しいもので、基本的には高単価へのシフトを既存メニューの値上げだけで実現しようとするのは無理筋なのだが、ちょっとしたことでも「以前より商品価値が上がった」実感(もしくは世間的に値上げをしてもやむを得なさそうな理由)があれば、一見釣り合っていなさそうな値上げ幅でも受け入れられてしまうことがある。またたとえば、店のオープン直後には(おそらくベテランの従業員を集めて)イイモノを素早く提供していた中規模チェーン店がだんだんと質を落としても、客足にはそれほど影響しないことがあったりする(大手コンビニ(というかセブンイレブン)のコーヒーだって、出始めのころは驚くほどモノがよかった印象が筆者にはある:実際にどんな変化があったorなかったのか事情はまったく知らない)。値段変更のタイミングとか付加価値の見せ方とか消費者の生活習慣への食い込み方とか、多くの要素を巧みに見極められる商才があれば、そういう仕掛けも可能なのだろう(別に飯屋だからといって食べ物だけで勝負する必要はなく、商売センスで繁盛する飯屋もあれば話上手で客を掴む飯屋もあって当然)。ただしこれらはどれも新規客を取り込みにくくなるやり方なので、時期ごとに別途キャンペーンを打つなり対策をする必要がある(それこそコンビニチェーンとか、ライバル店で何かやれば自分のところでも被せにいったり、バチバチやってるよねぇ:飯屋ではないけど、食い物屋としての括りで見れば、やはり巨人たちなのには違いない)。
ともあれ一般的には、既存メニューの中に高単価高付加価値の商品を追加していくのが普通のやり方だろう。とすると、安い料理ばかり出て新しいメニューに人気が出ない状況もあり得るが、それは単に新メニューの魅力が足りないと考えざるを得ない。現在の客数が十分多いのであれば、新メニューを試してもらうのに絶好の状況がすでに整っていると考えてよい。この店はいいものを出すと思ってくれる人が大勢いて、メニューに新しい料理が載っているのを見て、時間帯がよければ隣の客がうまそうに(うまいんだよね?)それを食べているのを目にしてくれるのである。それでも受け入れられないのであれば、メニュー自体に問題があると考える以外にない。ここで「客層」がどうのと難癖をつけるのは、見当違いも甚だしい。
そもそもの話として、単価の高さと儲けの大きさは直結しない。もし直結するなら、大衆中華の店は貧乏ばかりで寿司屋や鰻屋は金持ちばかりになるはずだが、世の中必ずしもそうなってはいない。倒産する高級店もあれば繁盛する大衆店も普通にある。日本は自由な商売が認められる国なので、もし割のいい商売があれば参入する人が増え競争が激化、割に合わない商売なら撤退する人が増え競争が鈍化して、結局はどのニッチでも似たような厳しさに落ち着くようにできている(ただし、需要の変動を見極めて「バランスが取れていない間だけ」の売り抜けがもしできれば、オイシイところだけ頂戴することが不可能ではないが、そんな才能に恵まれたなら飯屋ではなく投資家にでもなった方が、よほど効率がよいと思う)。
もちろん世の中には、外食にガンガンお金をつぎ込む割に中身にはあまり頓着しない人が一定数はいる。ただ、そういう人たちを取り込むための競争は恐ろしく熾烈で、ぱっと見の雰囲気だけ取り繕ったのではお話にならない。もしそこに狙いを定めるなら、実際にうまくやっている店舗を自分の目で見学して回るべきだろう。そしてそのライバルたちを圧倒できる(シェアを奪うのは維持するより何倍も難しい)強みをどうやって得るのか、じっくりと作戦を立てて臨むのでなければ、勝利はおろか生き残りも望めない。そこで勝負することを明確に意図して、勝つための戦略と戦術を練って実践した店だけが長く生き残っているはずである。「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」とはよく言ったもので、長い間負けずに戦い続けている店にはそれなりの「武器」がある。
最後に逆説的と思われるかもしれない筆者の持論を付け足してこの項を終えたい。人件費はかけられるだけかけるべき、価格は下げられるだけ下げるべきである。もし頭の中では反対のことを考えていたのだとしても、少なくとも建前の所では、客に1円でも安く食事を提供したい、従業員に1円でも多く給料を払いたいという姿勢を、ポーズだけでも見せるべきである。もちろん、それをどの程度まで実現できるのかが経営者の手腕だということは当然であるが、それ以上に、1円でも多く搾り取ってやろうという意図を見せれば客はシラけて上等な料理も楽しめなくなるし、1円でも安くコキ使ってやろうという意図を見せればマトモな従業員から順に「次の職場」を探し始めるのが目に見えている。実際上は朝三暮四のまやかしであったとしても、客や従業員に対して「あなたたちを大切に思っています」というメッセージを送って(少なくとも上記のような意図をあからさまに見せるのと比べて)経営者の損になることなんて何一つない。経営者も「取るべきもの」はしっかり取るべきだが、全員が満足する状況をずっと続けることは不可能なので、一時的な谷間で(少なくとも真っ先に)波を被るポジションは経営者以外にあり得ない。
標題は、筆者が知る限りの「結構繁盛している店のオーナーシェフ」たちが口を揃えて言う台詞である。実際のところ、ランチは利益が薄い割に、身体的なキツさが半端ではない(ワンオペであればなおさら)。しかしすでに触れた事情から、やらないと経営的にとても厳しくなる。
たとえば昼の客単価が1000円で月平均の客数が20、夜の客単価が3000円で客数が10というパターンを考えてみよう(いま勝手にデッチ上げた数字だが、そう現実離れしたものではないと思う:あくまで月の平均であって、休日を作ろうと思ったら他の日で稼がないといけないことに注意)。夜の客当たり材料費が1000円、昼は頑張って500円としたら、昼vs夜は売り上げで2万vs3万、粗利は1万vs2万になる。どう考えたって夜の方が割がよい。しかしここで固定費を薄められるかどうかが、収支に決定的な影響を及ぼす。同じ条件で、固定費(家賃光熱通信費と、駐車場とかリース機器とか清掃・防虫・消毒関連を月or年いくらで契約していればその分も)が30万/月かかっているとしよう。ランチなしの条件で皮算用をすると、収入が90万/月、材料費が30万/月、固定費が30万/月で30万/月しか残らない。しかも、ランチ営業の宣伝効果が丸ごとなくなるので、広告宣伝費を別途見込まなくてはならないだろう。ランチありの条件では、収入が昼60万/月に対して夜90万/月なら合計150万/月、材料費が60万/月でちょっと多めに見えるが固定費が薄まる分でトントンくらいにはなり、固定費が30万なら人件費その他(自分の給料含む)に60万くらい回せて、ランチ用にパートさんを増やして3時間*時給1000円*30日としても9万、50万くらいは残せる計算。家賃の高い都会だととくに、人と設備と建物を遊ばせない効果は絶大なのである。
しかしそうはいっても、体力は有限の資源である(仕事の充足感が回復を助けてくれることはあっても、少なくとも無限にはならない:無限なんじゃないかと思えるような働き方をしている人がいないわけではないが、数年とか十数年くらいの単位で見るなら、体を壊すか壊さないかのバクチに商売を乗せているだけで、褒められた行動では決してない)。家族経営の店なんかでは昼と夜を別の人が担当するような例もあるが、家族の生活時間が分断されるので簡単な選択ではない。ここはいろんな店がいろんな工夫をしているところで、昼は弁当だけの営業にしているところもあれば、メニューを絞ってかつ昼用にスープを取らなくてもよい構成にしているところもあるし、余裕のある店では若手の従業員に昼を任せてしまうようなこともある。経営規模はちょっと大きいが、昔東京の中心部に何軒かあった(今もあるのかどうかは知らない)昼が立ち食い蕎麦屋で夜がスタンド寿司なんていう使い方の店も、場所と設備を有効活用するアイディアとして合理的だと思う。
まったく反対に「ランチやりたい」と思っている店も相応にある。オーナーが店に(たまにしか)出ないタイプのバーとか、ライブハウス(も多くは飲食店扱いで営業許可を受けている)なんかで「人さえいるなら昼も開けたい」という話は(そういう店の関係者と付き合いが多かった時分に)よく聞いた。やはり経営者目線だと、建物を遊ばせておくのは切ないのだろう(家賃が高い地域ならなおさらに)。こういうパターンだと人件費はしっかり出さないといけないので、材料費と雇った人の給料が出て家賃にも少し回せれば(最悪家賃に回る分がなくても宣伝にはなるか)くらいの皮算用になり、働く側の都合としても、ある程度裁量を持たせてもらえるなら自分のステップとして面白い職場になりそうな気が(ずっと)している。ある程度期間を区切った雇用というか、自分で店を出したい人が雇われの身分で経験(これホントに大事)を積める場として機能するなら、人件費も(必要とされる技術に対して)そう高騰しないんじゃないかと思えるのだが。
さらには「昼しかやらない」という選択をする店もある。上で触れたような事情から薄利で営業する飲食店が多く、弁当屋などもライバルになる時間帯なので、市役所でも隣にない限り条件としては難しい(個人経営で副業持ちというパターンも見たことがあるが、ごくまれだろう)。さらに別の選択として、昼を他の事業に使おうとする店もある。上で触れた昼蕎麦+夜寿司は飯屋+飯屋のパターンだが、昼にギャラリーをやっているところ(ただこれは、ギャラリーの方が繁盛しているのをあまり見ない)、雑貨屋と兼業しているところ(主婦向けの小物屋とか、エスニックor郷土料理の店だと地場の食料品とか)、複数の経営者(おそらく親族か知り合いなんだろうけど)が入って昼に飯屋夜にカラオケ屋をやっている店も見たことがある。これらは少数派ではあるが、労力が有限で一人で働き続けるのが不可能(少なくとも健康上危険)である以上、なにかしら分担なり分業なりをして設備と建物を有効活用できれば、経営上の助けになり得る(当然そこでモメる可能性もあるので、うまくいけば)。
でまた筆者の独自見解なのだが、ランチ業務が負担になっているが分業が難しく、やめる踏ん切りもつかないとき、とりあえずランチを「縮小」してみるのはどうだろうか。もちろん、すでに触れたメニュー絞りとかテイクアウトのみにするとかいった、質の面での縮小も一案だが、曜日でランチを休むのもあり得る考えだと思う。中には例外もあるが、たいていのランチ客は週に3度も4度も来るわけではない。筆者の感覚に過ぎないものの、ランチなら週に3回もやってくれていれば十分、2回はちょっと少ない気もするがランチ自体に魅力があるなら曜日を合わせて行くのもやぶさかでない。結局のところ「タイミング選んでまで行く昼飯なの?」というところがネックになるのではあるが、そこに自信さえあるならチャレンジしやすい(ダメそうなときにも元に戻しやすい)縮小方法だと思う。
重要な情報:
以下はあくまで筆者独自の素人判断です。具体的な判断に際しては専門家の助言を仰いでください。
そもそもの話として、日本の法律はとてもわかりにくい(いや、外国の法律どころか日本の法律自体も勉強したことがあって言っているわけではないが、少なくとも成り立ちからして「そりゃシンプルになんてできないよね」という事情が山盛りである)。近代国家の法体系としてCommon Law(英米法とも、判例法主義、習慣重視、陪審制、コモンロー裁判所の判例と大法官が管轄するエクイティ由来:行為を直接的に解釈する傾向が強く、たとえば「水星から石を取ってくる」のような明らかにムリな内容でも契約は契約として扱ったり、またたとえば3歳児による不法行為に対しても「3歳児なりの」法的責任を求めたりする)と、Civil Law(大陸法とも、制定法主義、成文法重視、参審制、ローマ法・カノン法由来:それはムチャでしょという事態に対しては可能な限り先回りで「それナシね」を明記しておく)があって、日本は大陸法をベースにしながらも英米法のやり方を(半端に)取り入れつつ、日本独自のナアナア・ゴリ押し・密室主義を散りばめて、実に意味のわからない法体系を作り上げてきた。歴史への批判や反省は必要なのかもしれないが、実用上、現にそうなっているものに文句を言うより自分が適応する努力をした方がはるかに生産的なので、ここでは(文句も盛大に言うが)「じゃあどうするの」という検討をしていきたい。
で「お通し」のシステムを法的に支えているのは何ですかというと、これはもう「商習慣」でしかあり得ない。商売関連の法律の基本スタンスとして「商法>商習慣>民法」(初手で成文主義放棄すんなよ)であり、とくに関西and/or近畿地方における明治以前からの(という表現を「伝統的な」と言い換えても「前近代的な」と言い換えても正確性に遜色はないと思うのだが、とにかく古くからの)商習慣は、かなり尊重されてきた歴史がある。お通しの原型はどうやら、関西で「アンタはとりあえずコレ食べときなさい」と飲食店が出していた「突き出し」らしい(どれだけの検証がなされているのか知らないが、少なくとも俗説では)。これ自体はまあ、メインの料理が出てくるまでとりあえずつまんでいられるものが出てくるなら客にも損ばかりの話ではないし、食事全体の満足度向上につながっている限りは「もてなし」の一部だと受け取ることができる(「馴染み」の信頼関係がある前提において)。しかしそういう歴史と無関係な飲食店が、客から1円でも多く巻き上げることを目的に、コスパの悪い前菜をただ押し付けるために突き出す「お通し」に対しても、同じ基準を適用するのはどう考えても無理がある(が、実際には適用されがち)。
しかし商売をする立場から考えるときには、たとえ理屈で考えて不合理ではあっても、世間で認められていて他の店でもやっていることを自分の所だけやらないという判断は、そう簡単にできるものではない。ようするに「お通し」が日本の社会で認められている限り、出して利益を取らないとライバル店に押されてしまう(他の部分で明確な優位性を作れるならともかく、飲食店としての実力が伯仲しているときには)。もちろん、お通しを出さない店もあるし、中華屋なんかは(もともと統一感のなさが特徴でもあるし、食いたいように食って飲みたいように飲めという文化も他よりは強くあるせいか)出す出さないがバラバラなジャンルの典型でもあるのだが、客の間に「酒を頼んだらツマミも出てくるのが当然」という認識があることも多いので、出さないなら出さないで相応のフォローをしなければならない。さらに悩ましいことに、今の時代に従来型の「お通し」の形でツマミを出そうとすると、食品アレルギーの問題がある。昔と比べて食品アレルギーの人が増えている(詳細はhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/arerugi/67/6/67_767/_pdfなどを参照)なかで、お通しのつもりで出したモノが「それは食べられません」となる可能性はけっこうある(この辺が、タテマエ上は無料フードである「チャーム」とは異なる:断られるならまだしも食べて具合が悪くなったら最悪で、客が「注文していない」ものを食べさせるリスクは、昭和のころと比べてハネ上がっているに違いない)。さすがに「これが食えない奴に酒は出さん」なんてことができるはずはないので、店の側でなにかしら対応しなければならない。
これらすべてをパっと解決する妙案はきっと存在しないが、筆者は「客がやりたいようにやればいいんじゃね?」という(日本の大衆)中華屋文化に馴染みがあるので、酒だけ飲みたい客もツマミが欲しい客も飯を食いながら飲みたい客も、勝手に自分でそういう注文をすればいいんじゃないのという立場でいる(客の立場でも店の立場でも:お通しを出さない中華屋は、ツマミのセット商品みたいなものをメニューに入れていることも多い)。余談になるが、居酒屋ならともかく、バーでお通しが出てくるというのは筆者には違和感がある。少なくとも「オーセンティック」を名乗っているなら、それらしい流儀でやればいいのにと思わずにいられない(アメリカのbarもイギリスのpubも、open tab(テーブル払い)かclosed(キャッシュオンデリバリー)を客が選ぶのが普通で、頼んでもいないツマミが出てくることはないし(アメリカならチップは払うが)席料も取らない:田舎の個人店あたりで顔なじみになれば、crispくらいはオマケしてくれる日があるのかもしれない)。さらに余談だが、イタリアの飯屋(リストランテはおそらくすべて、トラットリアはよくわからんけど取るトコもあるみたい)では(酒は注文しなくても人数分)コペルト(Coperto)というお通し(パンが出るそうな:チャーム扱いなのかな)だか席料(食べ物は出さないトコも多いのだとか)だかの料金を取るらしい。デーブルのチャージなら人数がけじゃなくてテーブル1脚あたりで取ればよさそうにも思えるが、まあイタリア人のやることなのでツッコんだら負けなのだろう。
さて少し違った話題。基本的に、普通の飲食店で出している酒は飲み残しても持ち帰りできない。飲食店の許認可で酒の提供が可能なのは「酒場、料理店など酒類をもっぱら自己の営業場において飲用に供する」場合に限られる(酒税法第9条第1項ただし書き)。たとえ開栓したものであっても、酒類小売業免許を取得して、酒類販売管理者を置き、売場・レジ・帳簿も分けなければ合法に売ることができない(ただこれ実際上、半分店で飲んで半分持ち帰った酒を、どこで会計して帳簿上どう分けるべきなのか不明)。反対に言えば、これらの手続きを踏めば飯屋でも酒は売れる(酒類販売管理者の講習は衛生管理責任者のものと大差ない感じらしい)。中には「客が勝手に持ち帰ってしまった」(のを取り締まる義務までは店にないのだろうと思う)体でこれを無視している店もあるようだが、もし正規の手続きを踏まずに酒類を売っているなら法律違反の脱税なわけで、これだけコンプライアンスがうるさくなっている時代に「ウチは法律なんざクソくらえでやってます」と公言してしまうのは、いくらなんでもデメリットが大きい。客の側でも(自分が口に入れるものの安全のために)店に法律くらいは守って営業して欲しいと、おそらくは思っているだろう(ルール守れない人たちに自分の食生活預けるのって、相当リスキーだよ、実際:食べる側から見てもやっぱり、店を選ぶ前に「法律くらいは守ろうとする了見があるの?」ということを気にすることが必要で、ちゃんとした店を選んでいれば、いわゆるバイトテロとか飯屋テロみたいなものにハチ合わせる可能性も、ゼロにはできないが大きく減らせると思う)。
これもしかし、飲み残しを持ち帰らないでもらうためには、蒸留酒ならボトルキープもできるが手間と場所がいるし、醸造酒の多くは飲み切ってもらうか捨てるしかなく、アルコール強要が問題になって久しいこの時代に「全部飲んでください」なんて言えるわけもない。瓶ビールくらいなら飲み残しを持って帰ろうとする客はそういないだろうし、日本酒はボトル(というか瓶)で出す文化が薄いが、ワインを出そうとするとけっこう頭の痛い問題だろう(いやしかし、開栓しちゃったワイン常温のまま持ち帰ってどうすんのよと思わなくもない:100歩譲ってホテルのレストランとかなら、急に気が変わって続きを部屋で飲みたくなる人がいるかもしれないけど)。
これも人によって意見が大きく違うのだろうが、筆者は、いわゆる「激戦区」に店を出すのは(その地区自体が斜陽通りになっていない限り)いい作戦だと思っている。ライバル店が何軒も居並んでいるということは、そのジャンルの料理を食べたい人が集まってくる場所だということで、店にそれなりの魅力があるならリターンの確実性が非常に高い。地域でナンバーワンになるのは相当難しいだろうが、尻から3番めくらいでも生き残ることはできる。反対にライバルのいない地域で商売を成り立たせようと思ったら、需要を掘り起こすところから自分で始めなければならない。これはハンパな労力ではなく「激戦区で尻から3番め」程度の実力では到底足りない。
また勝負したいジャンルが狭ければ狭いほど、激戦区の恩恵は大きい。たとえば中華料理の中で、ワンタン料理(とくに理由があって挙げたわけではなく、別に春巻きでも中華粥でもよい)で勝負したいと思ったら、中華屋が集まる激戦区に店を出すのはたいへん効率がよい。中華料理が食べたい人が集まる地区なら、ワンタンが食べたい人も一定数いるのは間違いなく、その中に「どうせワンタンを食べるならあの店にしよう」と思ってくれる人が半分でもいれば、とりあえず商売は形になる。反対に、激戦区を避けて出店してしまうと、専門化しすぎたメニュー構成ではやっていきにくく、やむを得ず普通の中華定食みたいなものも出すようになり、専門店の特色を褪せさせてしまいがちである。
他の項でも触れたが、オシャレ系の店なら人が多い観光地(具体的に挙げるなら鎌倉とか、よさそうじゃない?:もう20年くらい行ってないので今は様子が変わってるかもしれないけど)はけっこう狙い目だと思う。雰囲気に投資するなら、雰囲気でリターンがある場所で商売すべきだし、凝った演出をするならするほどに、日常よりも非日常の空気が適するようになる。ただ、田舎すぎると人の出入りに対する抵抗が大きくなる傾向があるし、何百年前からやっています的な伝統が価値を生む地域だと新規参入はしにくい。また観光地だけに、全国的な景気の上げ下げで観光客自体が増減する影響を避けられない点は、デメリットになる。
ひとつ例外的なニッチも挙げておきたい。それは深夜営業の店である。ベッドタウン的な街の駅近くには、明け方(ないし始発電車)までやっている小さな飲み屋(スナックを称していたり焼き鳥屋だったりバーだったりいろいろ)がけっこうあった(都会住みじゃなくなってるので今どうなのかは知らない)。ごくごく小さいパイなので、既存店の廃業でもなければ新参者が入り込む余地は乏しい(客同士に連帯感があってヨソへは動きにくい)ものの、首都圏なんかで広く探せば、いいタイミングになっている場所を探せるかもしれない。夜型の生活になるので身体的にはキツいが、一度シェアを掴むと安定度が高い選択。
基本的に、独自色が強く個性のある店を目指すなら最初から人が集まる場所を選ぶべきだし、平々凡々な店を客扱いの上手さで続けていきたいなら住宅街の駅近く、店内切り盛りの巧みさで回転を上げたいならオフィス街、予約制でもてなしに力を入れるなら郊外でゆったり店を構えられるところや思い切って都心部、といった感じで、やりたいことに合わせてまず場所を選ぶことはたいへん重要である。
これも、いままで書きたいと思ってずっと書けなかった内容である。かなりシビアな内容にも触れているが、実際に店を畳んだ経験を持つ先輩方・友人・知人の記憶が鮮明なうちは、考え方として誰かの役に立つかもしれないとは思っても、大っぴらに言う気にはなれなかった。その踏ん切りがついたのは、ひとつにはいわゆる「コロナ後」の飲食店の苦境を目にしたからでもある。
冒頭に書いた通り、飲食店は潰れる。しかし潰れ過ぎると、店を出すときにかけた出費は無駄になり、厨房設備屋だけが儲かって店も客も割を食うという事態になる。別に設備屋さんたちを悪く言いたいわけではなく、実直な商売をしている厨房設備屋ももちろんあるだろうが、真面目にやっているところであればこそ、デタラメをやっている連中がいるという事実には同意してくれると、勝手に期待している。またたとえどんなに信頼できる相手だったとしても商売でやっていることなので、店がどんどん潰れて新規開店がどんどん増えた方が儲かる人たちの言うことだけを鵜吞みにするのは、いくらなんでも迂闊に過ぎるし、本当に誠実な相手であればそういう自分の立場もある程度は弁えているはずである。
筆者自身、飲食店で勤務していた経験があるし、今でも食べることは好きで外食もかなり頻繁にするため、経営規模で勝負する大手チェーン以外の飲食店にも賑わいがあって欲しい、と願わずにいられない。