ここまでお付き合いを頂いた読者に感謝を捧げつつ、精神論的なことを述べてこのコーナーを締めくくりたい。
音楽に限らず何かを作ろうとするときには「神聖な感触」というものがどうしても必要である。それが欠けていると、たとえどんなに高度な技術が盛り込まれていても、必ずどこか「チャチ」な作品になる。上手くできていることだけが問題になる場面がないわけではないが、チョロい仕事はどんなに上手くやってもチョロい。
「神聖な感触」というのがどういうもので表現にどのような関与をするのかは、それぞれが自分の感性で探らなければならないことなのだが、作り手の意のままになる部分とそうでない部分がある、という意識が大きな手がかりになる。
もうひとつ。どこまでいっても音楽は身体活動である。たとえ耳を使わず脳に直接信号を流し込めるようになったとしても、多分変わることはないだろう。
実際の制作や鑑賞では、作り手や聴き手に具体的な技術がいろいろと求められる。基礎技術なしで出したい音を云々しても話は始まらない。その一方で、技術や道具なしで「音楽ができる」ことも常に必要である。ドラムスについて「自分の膝を叩いて、あるいは手拍子ひとつでノリを出せない人はドラムセットを使ってもノリは出せない」と書いたが、どんな楽器(あるいはヴォーカル)をやるにしても事情は同じだし、また聴き手の側にも「音なしの、ただの身振りからでも音楽を読み取る」能力がどうしても必要になる。これらが不在な(あるいは不十分な)上にどんな技術を重ねても意味がない。音声加工を道具なしでやるのはいかにも厳しいが、話の根本は同じだろう。
抽象的な話ではあるが、心の片隅にでも留めて頂けたら幸いである。
読者のもとにいつも音楽があることを祈る。