最初に「降参のしかた」と「失敗のしかた」を身につけよ。
試して、考えて、もう一度試せ。
因果関係を点で求めるのは避けよ。どんな単純なできごとにも無数の原因があり、また無数の影響がある。
解釈しても理由付けしても、何も動かないし生まれないことを知ろう。
あなたは多分間違っている。しかし、自分を信じるべきである。
自分がどのような人間でどういう考えや価値観を持っているか、ということに囚われない方がよい。それは自然と決まるものであって、決めるものではない。
常に裸で生活する必要がないのと同様、常に素の自分でいる必要もない。
この人のようになりたくない、ともし思ったら、真似をしないよう用心せよ。意外なほど難しい。この人のようになりたい、という人がもし見つかったら、自分と別種の人だと考えないよう心がけよ。そのような遠ざけ方は消極的な拒絶と同義である。
あらゆる侮りは自身を愚かにする。あらゆる怠惰は自身を浪費する。あらゆる自己評価は自身を損う。これらに例外はない。
能力の高さ低さはいったん意識の外に置いてよい。手持ちの材料で何ができるか考えなければならない。
優秀であることは善良であることへの近道となり得る。充足した人は普通、敢えて悪事を働かないし、現にしていることがどのようなことか考慮する余裕を持つ。だから磨ける能力は磨かねばならない。しかし近道は常に脆道である。愚かさと向き合うことにこそ長い道がある。ここを踏み外した優秀さは、単なる無能に劣る。
興味とか熱意とか誠実さといったものは、それだけでなにかを動かせる力を持っていないが、安易に考え不明瞭に言い実践に厳密さを欠くという悪循環から逃れるためにまず必要で、最後の一押しとしてもまた欠かすことができない。しかし、それだけでなにかを動かせる力はやはり持っていない。興味とか熱意とか誠実さといったものを、自分で手にしてみて初めてそれがわかる。
一喜一憂が怠慢の証左だという指摘は間違いでないが、より正確には、一喜一憂を振り回したり一喜一憂に振り回されたりすることが問題なのであって、一喜一憂する感性には罪がない。些細な怠惰に目くじらを立てる行為は、まさに一喜一憂である。
浅慮軽率が脅威であることを知るには、その害を体験する必要があるだけでなく、害を体験してそれが軽挙短慮の産物であることに気付ける分別が求められる。つまり、実直地道な努力を身に付け、それをふいにするような失敗を誤らず反省して、ようやく迂闊さを警戒し始めることができる。実際に避けるための道がはるかに遠くとも、初歩を踏み出さねば到達もない。
どれだけの困難があるか思いが至らないのは、想像力が欠如した結果である。できないことをやりたいと思う心に罪はなくとも、それが目の前に現にあるものを無視する動機になるときには、有害無益というほかない。調子がいいだけの話を想像力の産物だと言い張る者は、試さずに臆している者と比べても周回遅れである。
簡単なことがしっかりできる人は、難しいこともできる。難しいことができないという人は、簡単なことがしっかりできない。
評価や解釈は暇なときにのみせよ。また、心地好い評価や解釈を楽しむのは差し支えないが、信用はしない方がよい。
望みには不安や恐れが付いて回る。見比べて後者の方が大きいようなら、おそらく得るに値しないのだろう。
本当に良いと思えるものは稀である。それを弁えることで、重要なものを持っていないことが恥じるに値しないこと、心から得たいものに出会って努力を怠ることが情けないこと、悪いところがあるという理由で良いものを捨てることが愚かであること、などを知ることができる。
たとえば体裁の悪さを恥じる前に、自分は体裁の良さをどれほど愛しているのか、ということを確認してみよう。
自分の足元を危うくすることでしか得られないものがあること、実際に足元が崩れたときの痛み、足元が崩れて痛い目を見ても意外と歩けることを、地面が平らなうちに知っておきたい。
入念な下調べは有用だが、実際にやってみなくては分からないことも必ずある。実際にやってみるのは効率のよい方法だが、試す前に知っておくべきこともたいていはある。
正しくなくては困るものに寄りかかることが必要なときもある。しかし、正しくなかったら仕方ないと思えるものを信じることができれば、ものの見え方が少し変わるはずである。
たとえば同じ人と毎朝会っても「おはよう」と言うように、一見無駄に思えても必要なことが多くある。
納得は求めなくてよい。どの道へでも後からついてくる。
良い悪いに二分して考えることで、わずらわしい思いを避けられる。しかし心が柔らかさを失う。
誰でも苦境に立てば嘘が増える。どんなに心がけがよい人でも常に1つくらいは嘘を抱えている。本当に嘘を織り交ぜるのが下策であることを知り、嘘に本当を上塗りしてゆく術を知らなければならない。
下世話なことを省みず高尚なことを語る人を近付けてはいけない。下世話なことに勿体をつけて語る人を相手にしてはいけない。下世話なことを得意気に語る人を信用してはいけない。
立派な行動が切に求められる状況が10回あったとして、そのうち1回でも立派な行動ができれば大したものである。現実的には、そう酷くない行動が2回か3回できれば十分だろう。
見栄で得をすることは何もないが、自分しか損をしない状況であれば、たまに見栄を切ってみるのも悪くはないように思う。
直感ほどいい加減なものはない、と実感できるまでは直感に従うべきでない。知恵ではどうにもならないことがある、と知らない者は知恵者ではない。
よくできた話には用心せよ。自分で考え出したものならなお用心せよ。他から材料を得て不明瞭な部分を自分で継ぎ足したものならさらにそのうえ用心せよ。
自分がいかに安心したがっているか気付くことができれば、自分に騙されにくくなる。他人がいかに安心したがっているか気付くことができれば、相手に不要な不安感を与える失敗が減る。
選ぶことや決めることよりも、応じることや全うすることが常に尊い。雑な言い方をすれば、何をするかよりもどこまでやるかが重要である。
意義や意味について悩む必要はない。何かに真剣に取り組むこと、取り組むために必要な面倒を乗り越えること、取り組みの中で工夫をこらすことを学べば、何にどうやって取り組んだとしても十分おつりがくる。
何かに真剣に取り組むことよって、真剣さを備えた人とそうでない人が見分けられるようになる。何かに真剣に取り組んだ経験のある人は信頼してよい。その結果がどうであれ、何かが手元に残る。
信頼できる人を探すのは難しいが、信頼は理解に勝る。まして符合や同調は問題にならない。真剣さを備えた人は、あなたの真剣さを見分けられる。
自分と違う真剣さを備えた人をみつけられたら、この上ない幸運である。多分あなたは、真剣さを裏返して他愛なさを見つめる機会を得ることになる。
利害に関する説明、あなたにとって何が得で何が損であるかという情報は、ほぼすべてが出鱈目である。寓意のために言うのではなく、素朴な意味でまさにそうなのである。
迂闊な判断を避けるには、時間と情報と平静が必要である。もしこのいづれかについて不足していてもやむを得ないと感じたなら、危機的状況にあると認識しなければならない。
もし利害について迷うところがあったら、自分がもっとも尊敬する3人に相談せよ。その際「自分は得をしたいのだ」という説明を忘れてはならない。彼らが有益な情報を提供することはおそらくないが、それ以外に参考となり得るものもない。
反対から言えば、尊敬できる3人を得られないうちは、利害について検討する段階に達していない。ここでいう尊敬とは少なくとも、この人が悪意を以って自分を欺くなら甘受しようと思える程度のものである。信ずるに足りなければ、軽率を恐れ無難さを追求するのが次善である。
断言できるわけではないが、もし得られた助言が「あなたはこうするのがよい」というものでなく「私はあなたにこうして欲しい」というものばかりであったなら、重く受け止めるべき意見に違いない。
実際のところ、尊敬に値する人は誰の周りにも無数にいる。人と交わり人を知り人に働きかける努力をどれだけするかというだけの問題である。どのような人にどれだけの敬意を払っているかということは結局、自分自信の器を示している。
あなたに健やかさがあらんことを祈る。