宮沢賢治は「現象」としての「わたくし」に「交流電燈」の語を接いだ。比喩としての「わたくし」たちはマイナスの領域なしに光を発することができないが、いっぽうで、私たちの心には「直流電燈」であろうとする要求が、どうしてもある。
無痛の世界、無謬の教条、無瑕の魂魄、そういったものに憬れる心持と、裏返しに痛痒や誤謬や瑕疵を振り回したい衝動は、現実がどのようであるかをいくら見つめても消えるものではない。このような極端指向を突き詰めると虚無に到達するのは明らかで、一見不毛な感傷のようにも思われる。生を否定することが死に通じるのとは少し異なる意味で、死の否定は生の否定に他ならない。
真面目な唯神論者たちは全知全能が無知無能と同義であることに慄き、潔癖症に悩む利口者は非の打ち所のない輝きがただ一点の染みを際立たせることに辟易する。これらの事態と正面から対決するべく、時間や空間を切り刻んで極小の楽園を彫り出そうとする者もいる。生じ得る結果は別として、いづれも虚無への指向を多少なりとも孕んだ運動に違いない。
このような性情が私たちのなかに動かしがたく存在するのだとすれば、虚無とは到達する地点ではなく内的な要素なのだと考えられないだろうか。ちょうど、あらゆる集合が空集合を包含するように、虚無はいたるところにあって、しかし何者も虚無自体ではない。
草食獣が肉食獣に喰われる様子を、映像だけではあるが見たことがある。どんな猛獣も置き去りにした脚は砕け、鋭敏な神経は飽和し、まだ止まらない心臓が血をしぶきにする。彼を生かしてきたすべての絡繰が死の側に裏返り、的確に食い千切られ、命を繋いだ肉食獣が去る。
100戦して99勝し、1敗して身を散らす英雄がどれだけいるのかわからない。川に溺れて死ぬ者もあれば、崖から落ちる者もあろうし、熱病に倒れて動かなくなる者もいるかもしれない。そんななかで彼の最期は、あやしく恐ろしくまばゆい。ここに神々しさを見出した人たちの感性は、見事と言うほかにない。その知恵を借りることで私たちは、もっと小さな起伏からも光と闇を読み取ることができるはずである。光を知ることは闇を知ることに他ならず、闇を知ることは光を知ることに他ならない。
波動としての「わたくし」たちがプラスの領域から振動を始めるのは、決まりごとのようなものなのだろう。順序の上で、生は必ず死よりも先にある。そしてゼロへの収束の前にある最期のひと振れは、きっとマイナスの領域へなのだろう。それは幾らかの恐ろしさを伴うが、同時に幾らかのやすらかさを期待させ得る約束ではなかろうか。
こうしてみると、プラスの振れとマイナスの振れが交互に現れるのと同様に、振動と停滞も交互に現れるのではないかと思われる。さらにその振動と停滞の交代にしても、緩やかに入れ替わるときと急激に入れ替わるときがきっとある。反対に、ひとつひとつの振れをごく近くで観察すれば、もっと細かな振動と停滞があるに違いない。
であれば、振動の激しいときには安定を、停滞が続くときには波乱を求める習性を、私たちはもっているはずであり、また振動の激しいときにさらなる波乱を、停滞が続くときにさらなる安定を望む心情を、私たちは抱いているはずである。振り切れようとする振動と、収束しようとする停滞が、また動き出そうとする静かさと、とどまろうとする激しさが、いつも幾らかの割合で同居しているはずである。
鍛えられた刃金が錆びて朽ちるとき、荒波が勢いを失い一瞬動きを止めるとき、私たちの心がなにかの「引っ掛かり」を得るのは、そういう理由なのではないかと思えてならない。