先生の授業を初めて受けたとき、退屈な老教授だと思った。当たり前のことをそんなに大げさにしゃべって、よく疲れないなと思った。頑固で執念深い人に見えた。
あるとき講義中に机に突っ伏している莫迦がいて、先生は「教室を出て行け」と命じられたのだが、そいつは「寝ていたわけじゃありません」と弁明をした。傍目に、その学生は多分寝ていたわけではなくて、単に姿勢が悪いのを先生が勘違なさったように見えた。どうするのかなと思っていたら、先生は「もしかしたら誤解があるのかもしれないが、俺と君は誤解を解かなきゃならんような間柄じゃない」とおっしゃって取り合わなかった。
ああこの人は、自分がやるべきことをやるのに、他人から短慮だとか横暴だとかいう非難を受けることを最初から覚悟しているのだ、とわかって感心した(そういった非難を「意に介さない」性分の人ではない)。
先生の話は、退屈なものも相変わらず多かったけれど、興味をもって聞いていると面白いものがたくさんあった。一番印象に残っているのはお面の話。
昔モンゴルにものすごく恐ろしい王様がいて、顔も非常に怖かった。あるときその王様が恋をしたのだけれど、怖い顔では嫌われるだろうと、職人に厳命して優しい顔のお面を作らせた。これがまたよくできたお面で、見ても触っても、作り物だとはまったくわからない。その成果か、願い叶ってめでたく結婚。王様は一瞬たりともお面を外さずに生活を続け、年老いて、もう命も長くはない、ということになった。王様は自分の人生に満足していたものの、数十年の間妃を欺きつづけていたことが心残りだったので、死の間際にお面のことを打ち明け、妃に「このお面を外してくれ」と頼んだ。困惑しつつも妃がお面を外すと、果たして、お面の下の顔はお面とまったく同じ、柔和で優しい顔でしたとさ。めでたしめでたし。
この話に、「まなぶ」ということは「真似ぶ」ということだ、という先生お気に入りの警句が続いて一揃いになることが多い(年寄りなので、同じ話が何度も出てくる)。そして、これは先生が口づからおっしゃったことではないけれど、生徒に「自分の真似をしろ」と言わなくてはならない以上、教壇に立っている間は「真似ぶべき立派な人」であり続けた(一度だけ、教室で「普通のおじいちゃん」をなさってしまったことがあって、何度も「年をとっちまった」とおっしゃっていたけれど)。
もうひとつ印象に残っているのは、天国の話。
先生は夏目漱石の研究を熱心になさった方で、ずばり「夏目漱石」という題の本を書かれている(上中下巻のはずだが、2006年末現在で中巻までしか出ていない)し、その他にも漱石関連の評論も数多い(これがまたいつもに増して、読んでいて嫌になるくらいの真面目さで、これ以上ないくらいの正論を山と積み上げてある)。
なので当然、江藤淳とか大岡昇平あたりが適当なことを吹いて回るたびに、容赦なく論破なさった。そうこうしているうちに「人斬り以蔵」だの「味方斬り」だのと言われ「あいつが出るなら俺は出ない」「あいつが書くなら俺は書かない」といったことを言う人が出てきて、結局、テレビ局からも大手出版社からも完全に干されて、大学の講義と零細の出版社以外にものを言う場所がなくなってしまったそうだ。
さて、やっと天国の話。あるとき先生が急に「君ら、天国はあると思うか?」と質問なさって「俺は、死んだら自分より先に死んだ人たちに会えると思う。もしそうなったとき、江藤や大岡は(自分たちが漱石について手前勝手でいい加減なことを言っている自覚があるから、恥ずかしくて)漱石の目の前に出られないだろう。俺は漱石の正面に立てる」とおっしゃった。学生がきょとんとしているのに構わず、そのとき漱石は「ありがとう」と言ってくれるはずだとおっしゃって「まあ、老い先が短いのだからこのぐらいのことは言ってもバチは当たらんだろう」と自分で混ぜ返された。
これは弱音に相違なく、聞いていた筆者は「ああ、先生も現実逃避はするのだなぁ」と思いつつも、信念が強さを生み出すというのはこういうことなのかと感心していた。
「遠い人は愛せても近い人は愛せない」という話(これの元ネタはイワン・カラマゾフの台詞)とか、「政治には性悪説しか通用しない」という話(これはT. S. エリオットの「inner voice は当てにならない」という話と組になっていたはず)とか、「素人役者を見分ける方法」などが印象に残っている。
筆者が学部の3年生を終える年、先生は定年で退官された。最終授業と称した催しがあって先生に教えを受けた人たちが集まり、もちろん学部の学生にも参加が許されていた(畏友U君などは実際に参加していたようだ)。筆者は当日学校まで行きはしたのだが、なんとなく出席する気になれず図書館(学部の事務所だったかもしれない)で英文科発行の雑誌を読んでいた。
雑誌の巻末には先生を取り上げた特集が組まれており、英文科の先生方(の中でも、先生の教え子を中心に)から寄せられた原稿が掲載されていた。このような評は不遜に当たるかもしれないが、驚いたことに、寄せられたすべての記事が「浮いて」いた。唯一、掲載されていた中では若手に当たる先生の「不肖の弟子」と称した文章だけが「上滑り」を免れていたように思う(怯懦にして先生に肖ろうなどとは思いもつかない我が身からすれば、あれが「肖らない弟子」という意味なのだとしたら何とも気楽なことだが)。
雑誌を読み終えて駐輪場へ向かう途中、偶然に、先生が研究室に戻られるところを見かけた。催しに参加した人たちも大勢従っていたが、その様子を見てふと「天国の話」を思い出した。と同時に、先生が保ちつづけたのであろう「正気」を想像して少し恐ろしくなった。
ともすれば、その痛快な物言いばかりが持ち上げられることもあるが、先生は気の遠くなるような年月に渡り笊で水を汲み続けた人であった。暖簾を腕で押し続けた人であった。それを滑稽だと言う人はそう思っていて(少なくとも筆者には)差し支えないが、そこに尊と厳を見出し、敬し愛さずに居れない人は、自分自身の心持ちに矜持を抱いてよい。
先生が2016年6月8日に永眠されたことを後から知った。弟子にして頂いたわけではない。大学を卒業してこのかた一度の連絡を取ったこともなく、葬儀に駆け付けることも叶わなかった。しかしそれでも、私は松原正の教え子である。そう明らかに書くべきときが来たということを記して、この記事の締めくくりとする。