最近、祈りについて考えることがある。
願いや望みのないところに祈りは生まれないはずだが、祈りとそれ以外の要求には決定的な差があるように思える(ここでは「願をかける」という意味での祈りは除外して考える)。観念の話なので喩えは引かないが、我々は祈りとそれ以外のものを、少なくとも概ねは区別できる。
祈りの定義を明確に定めることは不可能であるが、筆者が祈りとみなすものにはある程度共通した傾向がある。祈りは、
a. 切実である:祈るには、強い願望ないし要求に支えられる必要がある。
b. 結果を問題にしない:何かを祈るとき、人はそれが実際に得られるかどうかを問題としない。
c. 試みに結びつかない:反対から言うと、新たな試みの余地がないことが前提となる。
d. 心境に作用する:平静や充足など、一定の傾向をもった心理作用が起こる。
という条件を備えているはずである。
ここで注意したいのは、信仰は祈りに直接的な作用を及ぼさないということである。筆者は多神論者であるが、何に祈るのかと問われると、実際のところ山の神にも海の神にも祈っていない。けだし、祈るという行為は対象(西洋言語で動詞の直接目的語に当たるもの)を必要としないのではないか。信仰はただ、上に挙げたような条件を満たすための助けに過ぎないのではないか(唯神論者の場合は事情が違うのかもしれないが)。
さて、ここまでの考察について上面を撫でてやると、祈りというのは、
A. 強い願望ないし要求が
B. 自己目的化して
C. 自己完結した結果
D. 心理作用を引き起こす
ものだということになる。
怨嗟と悲嘆、妄想、後悔などと祈りを隔てるのは何だろうか。最大の要素は
1. 幸福への指向
2. 厳粛さ
3. 他者への指向
であろう。怨嗟や悲嘆は幸福を指向しない。妄想は前述のbないしcに関して厳粛さに欠ける。後悔はもっぱら自己に向けられる。
結局「A~Dのような動きが1~3のような条件のもとでなされた場合」を「祈り」と定義したわけだが、最初にも断ったように、これはもちろん厳密なものではない(過不足もあろうし誤りもあるだろう)。
それでもこのような定義をあえてする利点というのは、祈りの普遍性を説明できる点にある。一見してわかることだが、上の条件はいずれも「程度の問題」をはらんでいる。
もちろん、我々の認識はそのような事象を閾値のふるいにかけて単純化する(つまり、祈りと祈り以外のものを区別する)わけだが、それでもなお「祈りはあらゆる願望や要求に(怨嗟や悲嘆や妄想や後悔にさえ)含まれている」ことを知る意義はあろう。