このページには画像データを用意しなかった。少し調べればすぐにでも見つかる作品ばかりとりあげているが、パソコンの画面では伝わらないことが多すぎるためである。
どの分野にも「桁外れの天才」というのがたまに現れるが、画家でいえばロセッティが筆頭に挙がるだろう。正直なところ筆者はこの人の絵があまり好きではない、というか、やっていることが天才すぎてついていけないところがある。
どの絵を見ても凡作は見つからず、中でも「ベアタ・ベアトリクス」や「聖なる少女」などは抜群である。神経質で自閉的な傾向はあるが、その絵筆は常に怜悧で隙がない。一言で言えば、感傷の泥沼に理知の翼をひたして羽ばたいた人である。
前回とりあげたように色使いの鋭さも見所ではあるが、行き場を失って画面に吐き出された嘘が織り成す凄みが、この人の最大の魅力である。
ムンクは、筆者がもっとも愛好する画家である。この項は筆者の思い入れをただ垂れ流すだけになるのであしからず。
ムンクを初めて見たのは(美術の教科書を除けば)伊勢丹かどこかで開催されたムンク展のポスターだった。新宿駅の、記憶が誤っていなければ京王線改札から西新宿方面へ抜ける地下通路に「思春期」を画面一杯に収めたポスターがあり、それが目に入った瞬間ふっと「白人臭い」感覚にとらわれたのを覚えている。
最高傑作を1つ挙げよと言われれば、筆者は「病気の子供」を推す。この人は同じ絵を何度も書き直すことで有名だが、青い色調の「病気の子供」はまさに目が覚めるような緊張感をみなぎらせている。迫力という意味では「マドンナ」も捨てがたいところではあるが、描かれた場面と見る人の間の透明感というか、距離の近さのようなものがより強く感じられるのは、やはり「病気の子供」である。
この人は無我夢中の天才であって、自分が見たものをそのまま絵に残しているだけである。技術的には後期印象派の流れの中にいるが、これは幸運な偶然であろう。
ロセッティやムンクは、いわば素の天才であったが、フェルメールは少し毛色が違う。
バロック期の画家であることを考えると、技術の高さは恐るべきものだといえる。造形にも色使いにも非の打ち所がなく、とくに色彩の感覚には目を見張るものがある。にも関わらず、この人の作品は妙に押しが弱い印象がある。どこかに必ず、筆の勢いを押し留めるような、良識の楔のようなものが打ち込まれている。
そうやって、用心深く優秀な絵描きを続けていたのであろうフェルメールが、思わず足を踏み外したのが「真珠の耳飾りの女」である。他の絵のような、ちょっと間を取るような引いた態度が薄らいでいる。もう少し言えば、速度超過をしてしまってからあわてて制動をかけたような印象がある。前回引いた「天秤を持つ女」に閉じ込められていた鮮烈さが、表面に浮き出てきたようにも受け取れる。筆者は、ちらりと見かけただけの人物を描いた絵だと信じているが、であればどうやって描いたのか、想像するしかないにしても興味深いところである。