自分のことをあれこれ気にしているようではまだまだ。まして読者をや。 阿りは作品を堕落させるが、何より愚劣なのは作者自身に対するそれである。 それ以上捏ね回しても良くはならない、とわかりながらもやる。 他にしようがないから、詩など書いている。 駄作の多寡は単に作者の性格を示すのみで、能力とは関わりがない。 芭蕉や蕪村を読んでさえ眉も動かさない相手に何をどうすればよいのか、と一度は考えてみるべきだろう。 美醜は相反する概念ではなく、醜は美の構成要素たりえる。完全な美というものがもしあるとしたら、醜を備えた上でそれを忘れさせる何かを持っている、ということではないか。 他愛なさとどのように付き合い、どのように織り込むかというのは重要な問題である。とくに前衛的傾向が強い作品で軽視されがちだが、無視するのは得策でない。 詩なんてものはどうとでも解釈できる、というか、ある程度の奥行きを持っているのが普通である。 書いた本人と同程度のことしかわからない批評家なんて、いても邪魔なだけである。 本当に優れた旋律は、楽しげにも悲しげにも荘厳にも軽薄にもなり得る。似たような性質を詩にも得られないか。 たとえば愚かさは賢さよりも普遍的である。どのように扱うべきか、慎重さが問われる。 性的な連想をともなう表現は、死の含意に裏打ちされてはじめて機能する。 現実逃避は、厳粛に試みて失敗したときに限り詩的でありえる。 比喩は相似性の提示と類義であり、同化と異化の作用を同時に含む。 知者不言言者不知というのは的確な指摘で、とりわけ人の徳について言う場合にあてはまる。描くことの意義のひとつである。