長いものを書くなら満寿屋の111番が断然よいが、定型詩の創作にはある種の緊張感が欲しい。目の前に白い紙があるという事態に脅かされながら、それを圧し潰していく行為が必要だと思える。11番をグレー罫にしたものがあればとも思うが、無彩色だと汚していく感覚が鈍るだろうか。 「日常的な事象に肯定的な光を当てた」という意味で、「サザエさん」は芸術作品としても一級のものである。 科学的な評価とはつまり方法論と手続きの評価である。たとえば「常温常圧下で銅は鉄よりも密度が大きい」ということを実験で示したとして、実験結果自体は評価の対象にならない。実験デザインと実験手順が結論をどの程度保証するものであるかが問題になる。 五七五の17音で作るリズムについて考えてみた。どうにも「タカタ(タ)タ+ タカタタ+ タ+カタ タカタ+(タ)タ」という形が理想形に思えてならない(括弧書きの(タ)は弱い/低い音またはカと互換、タ+はアクセント的な音:7音の部分は「タ+カタ タカタ+(タ)」という倒置形でもよく、別の派生として「タカタカ タカタ」というアクセントのない反復パターンも面白い)。「タカタカタ」または「タカタ」のまとまりが基本になって、4音になる部分がイレギュラーに変化すると考えてよかろうと思う。「(タ)タカ」などの形ももちろん許容されるが、これは意図的な逸脱と考えた方がしっくりくる。五七七の19音なら、17音と同じタカタ(タ)タ+」で始めて、正置形-倒置形または倒置形-正置形の7音が続く形だろうか。 美と笑いには不思議な共通点がある。どちらも通常の主観的判断から外れた一種の例外処理であり、緊張感が収束するか発散するかの違いが2つを分けているのだと思う。緊張感がゼロに近いところで収束すると惑いになるのかもしれない。 創作は、気付きと把握、転化と提示から成る、というのが筆者の持論だが、日本語の詩においては「気付き」に秀でたものが好まれるようだ。英詩を勉強して「なるほどよくできている」と感心しても愛好するに至らないのは、提示の部分に偏って情熱が注がれているのが一因かもしれない。 邪道は承知ながら「桃李言ハズ、下ハ自ヅカラ蹊ヲ成ス」この訓読が一番美しいように思う。 観測可能な対象の振舞いを否定したところに自然科学がないのと同様、人の心の振舞いを否定したところに芸術はない。 アリストテレースがどれほど胡散臭く感じられても、芸術の定義に普遍性を持ち出した功績は認めざるを得ない。プラトーンの偏屈は愛せなかったとしても、行為としての芸術に模倣を見出したのは確かに慧眼である。 関連性理論(有意性理論)を応用することで、美学的な見地が得られそうな気がするのだがどうだろう。いわゆる長編小説において文脈の構築が関連性の整備に相当することはもとより、絵画や詩歌において関連性の逆転が生む効果だとか、音楽の構成が受け手の期待を背景とすることなど、わりと広い範囲の説明に役立ちそうに思える。 役夫の夢はただの屁理屈に過ぎないが、役夫は夢を見るという指摘は大きく恐ろしい。この冷静さと巧妙さに中国人の凄味が現れていると思う。落地生根はただの開き直りに違いないが、そこにどこか子供じみた矜持を読み取れることがある。台湾人に感じる親しみはこういうところが生んでいるのだろうと思う。 ホメーロスが実在の人物なのかどうかわからないが、彼が天の声を聴いて詩を作ったという解釈は、まことしやかないかめしさを感じさせる。 「具体的である」という脅威の前に、少々の現実逃避があるのは必要悪として認めてもらえないものか。 コンピュータと比べると、人間はアイドルプロセスの扱いが苦手なようだ。 「六芸」でも「liberal arts」でもよいが、とにかく、読み書きと算術と音楽はできた方がよい。 「it takes a leap of faith」とか「you can't shut off the risk and pain」とか、そういったことを「情けなさ」と結びつけずに表現し得たところに、詩人としてのボスの凄みを感じる。 模倣子(meme)とはよく言ったものだが、遺伝子(gene)が滅べば模倣者もなくなることは忘れない方がよい。有限の影響をできるだけ長く残そうという前提を持つのは同じでも、模倣は同族あるいは近親種の遺伝が存続しなければ成り立たない。記録が世代の断絶を越える可能性は否定できないが、望みとしては頼りないように思える。 女性の情念が爆発すると空間が歪み、蒸気や陽炎を纏うように見える。男性の意思が極まると時間が曖昧になり、決定論的に動くように見える。性差と呼ばれるものを集成すると、そのようになろう。因果関係はわからないが、ガイアが女神でウーラノスが男神であることと一致する。