ことばと芸術と 喜びを以ってなせ。苦痛はどこからでも得られる。 簡潔なことばには神性が宿り、複雑なことばには魔性が宿る。 優れた詩からは音が鳴る。秀でた音楽からは光景が浮かぶ。佳い絵画からは匂いが立つ。 挨拶は、迂遠だが力強い言葉である。   諌言 真剣さは決して恥ずべきものではない。しかし滑稽なものである。滑稽だが恥ずべきでないものである。どちらの認識が欠けてもいけない。 どんなものにもよいところと悪いところがあるのだということは、信じてよい。もしどちらか片方しか見えなくなったなら、何かが邪魔をしているということになる。 自分の言っていることはどこかおかしい、自分のしていることはどこかちぐはぐだ、という感触を、いつでも思い出せるくらいの頻度で得ておくべきである。 徳は、どの場においても対称性を保つ。たとえば「自分はこの人たちからどれだけの敬意を得ているか」という問題と「自分はこの人たちにどれだけの敬意を払っているか」という問題は等しい。寓意のために言うのではなく、そのような関係にあるものを徳と呼ぶのである。 苦難も後悔も収穫も、どの道にもいづれある。 他人に罰ないし褒美を与えようとすることがどれほど恐ろしい行為かわからないなら、決してそうするべきでない。なるべくなら、自分に対してもしない方がよい。 極論すると、あらゆる人が、いかなるものをも、選ぶことも評価することもできないし、そのように試みることはもちろん、それが可能なのではないかと期待するだけで不遜である。できるのはただ努めることだけである。   辞典 誠実に話すというのは相手に徳を期待して話すということであり、不誠実に話すというのは相手の不徳を期待して話すということである。 努力は地面から積み上げるものであって、なにかを横から引っ張ろうとする行為ではない。 artとは、逐語的には「洗練された作為ないしその手順」のことである。日本語の芸術は英語のartよりもやや意味が狭く、医術や武術を含まず、artの訳語としては単に術の方が合う。ここで弁えるべきことは、人の認識に作用する作為一般を芸術として認めるなら、人の不徳に訴え作用し助長する作為もまた芸術だということである。つまり、芸術にも秀優なものと愚劣なものがあり、その程度は別として、振る舞いを支える原理自体は同一である。このことから目を背けてはならない。 根拠があるなら自信は必要ない。明確なつながりを欠くから信が必要になる。 熟練が体系化を経て理知になり、理知が素朴さを土壌に感性を育て、感性が経験と出会うことで熟練に達する。熟練は技術に通じ腕づくの押しに行き止まる、理知は知恵に通じ組織力に行き止まる、感性は発想に通じ奇策に行き止まる。技術が発想を具現化し、知恵が技術を有用化し、発想が知恵を活用する。腕づくの押しに頼ると組織力に破れ、組織力に頼ると奇策の前に破綻し、奇策に頼ると腕づくの押しに圧倒される。たとえばこう考えてみよう。厳密さに欠けるところはあるかもしれないが、優劣の二元論を迂回できるだけでも有用ではないか。 不満と不安と不遜が張る卑屈の三角形、怠惰と高慢と我欲が張る堕落の三角形、焦燥と傷病と緊張が張る衰弱の三角形が、習慣と教育と迷信が張る文化の三角形を土台に四面体をなす、というのもこじつけがましいが、やはり認識の膠着をほぐす効果を期待できる。   為人 心の動きを意図的に制御することは、たとえば服を着ることや髪を切ることと同程度に、自然な振る舞いである。 すべての人にその人なりの報いがある、というところから出発すると、薄壁を1枚仮にではあるが取り外すことができる。つまり、本人の与り知らないところからやってくる運や不運を、幸不幸の尺度から外して考えることが可能なのではないか、という示唆が得られる。 現実を見るのはある種の訓練であり、怠れば必ず妄想に堕す。まず知るべきは現実が受け入れがたいものであるということで、だから現実を見るのが困難なのだということである。 人は放っておくと過剰に深刻になるから、笑いや驚きや落胆などを絶やすべきでない。 崩れ敗れることは、それが気付きと再起に結びつく限り、保ち勝り続けることより有用である。 悪意は、自分で持っていてはじめて感じ取れる。誠実さは、誠実な相手にしか通用しない。 関われば似る。敬愛を尊び憎悪を忌む理由はそこにある。 学ぶことの本質が真似ることにあるのは間違いない。しかし、真似ることとなぞることは同じでない。 どんな人にも子供じみたちゃちな欲求がある。ちょうど老木の奥に100年前の年輪が、あるいは洞となっても佇んでいるように。穏やかさとか暖かさとかいうものが、だから必要なのではないか。   量化 努力した人すべてが技術を得られるわけではないが、努力せずに技術を得る人はいない。たとえば資質の影響がいかにも大きそうな「速く走る」という技術にしても、生まれたときから足が速かった人はおそらくいない。 求めるものすべてを手にできるとは限らないが、求めずに手に入るものはない。もし求めた覚えがなければ、なにを求めているか理解していなかったか、手の中になにがあるか把握していないか、あるいは性質の悪い記憶違いである。 射られた矢がすべて的に当たる保証はないが、矢を射ずに的に当てることはできない。的を外すことを拒否するためには、的に当てることも放棄せざるを得ない。 天賦の才だけで優秀な人はまれにいるが、強さは負けを呑み込むことでしか得られない。善良さから親切な人はいても、己の酷薄さを思い知らずに優しい人はいない。作法は教育によって身につけるが、礼を尽くせるのは無力さを弁えているからである。   世知 過去の選択や失敗の瞬間を悔やむのは、暇なときだけにするのがよい。 執念深く集めよ。なるべく気前良く使え。機会に恵まれたら丁寧に拾い戻せ。 労を惜しまない、というときの「労」には、過去の労も含まれるのが本来であろう。 恩は、それが善意によるものだと信じるなら、食い散らかして構わない。ただし叶うなら、本人にでなくてよいから恩返しせよ。 合理的な説明は無数に可能である。手元に残った仮説の数がたまたま1であっても、安心するべきでない。説明をつけたいという願望に注意するべきである。 徳は得に通じる。 人は真っ当な精進をせずに済む根拠を手にするとそれを振り回す。このとき支配的な影響を持つのは、手にした本人にとってそれが何であるかという主観である。だから徳や慎みなどの資質が求められる。また堕落と怠惰を分けるのは積極性の違いである。 同意がなにも生まないことや解釈がなにも動かさないことは弁えるべきだが、常に同意を求め続ける人たちや解釈で現実を塗り替えようとする人たちの執着心を甘く見てはならない。 一見無駄なまわりくどさ、現実とかけ離れた認識や主張、明らかに不合理な行動や説明、極端な短慮、強引な同一視といったものは、強い願望ないし不安と結びついていることがある。それらを甘えだとか妄想だと断じることは簡単だし、簡潔で現実的で合理的な代案を用意することも可能だが、まずは拒絶を緩和する方法を模索するべきだろう。   功利 現実的な問題として、軽侮に喜び敬意を怨む人は多い。だから慎重さが必要で、迂遠を嫌うべきでなく、差し出された敬意の貴重さを弁えなければならない。 急かされる話には裏があると思え。好機に見えるものであればなおさらに。 疑いの余地を消すための努力は、たとえ成功しても弊害を伴う。 一般論として「このようにするとあなたのためになる」という情報よりも「こうしてくれると私が嬉しい」という情報の方がはるかに有用である。 権威主義は便利であるから適宜活用するべきであろう。ただし、その利益に浴する者には権威に厳粛さを求める義務がある。 「今だけ我慢すれば」と考えるのは、ほとんどの場合現実認識が甘いからである。 何を得ようとしてそうするのか、という意識はあった方がよい。 相手が望むものを自分が得ている場合、敵意を想定しないのは迂闊に過ぎる。 常に身構えていないと損をすることがある、というのは事実である。ただし、身構えていないことによる損よりも、身構えることによる損の方がたいていは大きい。   根気 太陽は北風に勝ったと云い、巧詐は拙誠に如かずと聞く。牛のように押せと諭し、ゆっくり歩むものは遠くまで行くと教わる。いづれも重く尊く正しいが、高く遠く困難である。 笑わない人はやつれ、怒らない人はふさぎ、休まない人は息が切れる。 安易は全体を蝕み、精緻は全体に行き渡るから、ときには衝突しときには混じり合う。最初はそれぞれの勢いが、さらには注がれた分量が、最終的には根深さが、様相を左右する。 美徳は稀で悪徳は普遍的であるから、欠点があるという理由でよいものを棄てるべきでないし、また悪い部分との付き合い方のようなものも必要になる。 健やかさは根気を助け、根気は健やかさを育てる。そのようになっていないとき、なにかが噛み合っていない。 基礎技術という呼称は正しい。