趣味の定型詩創作2(「同化」と「異化」)

歌評入門 / 知識は必要か / 評の受け止め方 / 返歌 / 本歌取り / まとめ // もどる

作品の味わい方や評し方について少し触れてから本題に入ります。

歌評入門

他人の作品を評するとなると、とかく技術面に目が行きがちですが、あまり気にする必要はありません。たとえば、札幌大通公園の碑に刻まれている

家ごとに
リラの花咲き札幌の
人は楽しく生きてあるらし

という吉井勇(啄木らとスバルを創刊した人)の歌があります。これは前回採用した分類でいうと「2つのものを一つの歌」にしたもので、前半と後半の関係性に注目して見ると、2句目を「花咲く」ではなく「花咲き」としたのは非凡な技術と言えるでしょう。また2句目と3句目を同じ行に収めたことや1句目を「家々に」ではなく「家ごとに」とした効果にも目を見張るべきものがありますが、それを指摘するのは本業の歌人たちに任せておいて差し支えありません(気付いたことをあえて黙っている必要はありませんが、わざわざ探してまで指摘するような事柄ではありません)。

そのような些事はひとまず置いて、まずは自分の印象を述べておくのがよいでしょう。たとえば、この歌を「楽しげ」と見るか「さみしげ」と見るかは人それぞれであって、前回からの繰り返しになりますが、そういう「感じ方」を交換するのが歌作りの大きな楽しみです。技術的な事柄は誰が見ても変わりませんが、「感じ方」はその人その人に固有のものです。であれば、自分にしか言えないことの方を先に言ってしまうのが得策というものでしょう。

技術的な理解が鑑賞の手助けになることは多いので、その方面の努力も無駄というわけではありません。鑑賞において技術の評価を第一とするのは本末転倒だということです。ただし、背景の理解は非常に大切です。先に引いた歌でいえば、リラが葡萄の果実のような形をした薄紫の花で春に咲くのだということは、ぜひ知っておかねばなりません(この点、リラを目の前にして読むのが前提なら、事前に知識を仕入れておく手間が省けます)。ちなみに、リラは仏語読みで英名はライラック、モクセイ科の落葉樹です。

技術偏重が弊害になるのは入門者に限った話ではなく、ある程度熟練した者にとっても落とし穴になり得ます。むしろ、それなりに根拠を持ってやっている分、厄介さが増している場合があります。とくに注意したいのは、技術的に未熟な歌を評するときです。未熟な作を未熟なままに鑑賞できるゆとりを持たなければ、秀歌を秀歌のままに鑑賞することもできません。熟練すればするほど、技術に注目することでたやすく「正しい評」が吐けるようになるので、注意が必要です。

また「ここをこうした方がよい」などと手を入れるのは、とくに請われない限り避けましょう。佳句の素材を惜しむなら、代わりに、手を入れたものを自分の作としてしまって構いません(もちろん、元の作者の了解があることが前提になります)。日本語の定型詩は短いものが大多数で、俳句などは17字しかありませんから、1字でも違えばもはや別の作と考えて差し支えないものです(創作という行為を突き詰めていくと、どんなに長い作品にも同じことが言えるはずなのですが、それはまた別の話なのでここではとりあげません)。

知識は必要か

結論からいえば、少しだけ必要になる場合があります。しかし、詩歌を楽しむことが目的であるならば、ほとんど必要でない場合もあります。どうしても必要になる知識は「漢字の読み」くらいでしょうか。その読み間違いにしても重罪などではなく、むしろ楽しむべきもののひとつです。たとえば、

古池や蛙飛び込む水の音

という芭蕉の句があります。2句目の「蛙」は「かはづ」と読むべき字ですが、これを「かへる」と読んでしまったとしましょう。もちろん誤りには違いありませんが、一方で、妙に生々しいような新鮮な感じもしないでしょうか。後から「かはづ」と読むことを教われば本来の句も味わうことができますから、誤ったことで却って得をしたと考えてよいでしょう。のみならず「『かはづ』と読むのか、なるほど」と思いながら句を眺めることで、最初から知識を持っていた人とは違った感じ方ができることもあるはずです。

言うまでもなく誤りはその都度正すべきですが、誤ることを怖れる必要はありません。誤ることの面白みや、新たな知識を得た驚きとともに詩歌を味わうことを知れば、臆することなく誤りそれを正すことができるはずです。また、先に触れたたように、今目の前にあるものを歌った詩を鑑賞するのであれば、知識の仕入れは大部分を省略できます(あえて詳細な知識を仕入れておくのも、それはそれで面白い作業ですが)。

そのほか、文語の詩歌を読む場合には(書く場合にももちろん)、文語文法の基礎知識が必要になります。たとえば、

春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕

という白秋の歌は「な鳴きそ」で「鳴くな」という用法なのだと知らなければ意味不明になってしまいます。残念ながらこれは代用がききませんので、地道に勉強をしておいてください。

評の受け止め方

何よりも大切なことは評を楽しむということです。たとえば、あなたが「ススキが豊かに実っている」風景を(ちょうど今秋なので:「その1」を書き始めたのは2003年11月末だが、この部分を執筆しているのは2007年9月上旬)

薄原 いづこの際に尽きなむと

と歌にしたとします。それを「うら寂しい感じ」に受け取る人がいたとしたらどうでしょうか。「そう言われてみるとうら寂しい感じにも読める」「そう言われてもうら寂しい感じはしない」どちらの感想でも構いませんが「うら寂しい感じ」という受け取り方自体を「面白い」と感じられるかどうかが、定型詩の創作を楽しめるかどうかを左右する大きな要素になります。このとき見た風景はきっと、最初から「豊かさ」と「うら寂しさ」の両方を備えていたはずです。自分が気に留めなかったうら寂しさを、改めて味わってみましょう。

また、この句では「尽き」に薄の縁語である「月」をかけてありますが、こういった工夫に誰も気付いてくれないと、何ともいえない口惜しさがあります(技巧に気付かなくとも味わえるのが本当の秀歌ではあるが、技巧しか取り柄のない歌ができてしまうこともままある)。技巧の押売りはあまり感心できるものではありませんが、どうしても心残りな場合は、まずは評をしっかりと聞いたうえで、控えめになら指摘しても構わないでしょう。ただし、創作に限らず、何かしら工夫をこらした成果は必ずどこかに現れるもので、表面に浮いていないからといって気に病む必要はないのだということは、覚えておきましょう。

他人が自分と違う感じ方を示すのが「面白い」と思えること、他人が自分と同じ感じ方を示すのを「つまらない」と思わないこと、歌の取り柄が10あったらそのうち1か2くらいを味わってもらえばよいと思えること、苦心した個所が他人の気を惹かなくても「甲斐がない」と思わないこと、このあたりが評を受け止める「才能」といえます。才能を磨きましょう。

返歌

評を付け合うことに慣れたら、返歌にも挑戦してみましょう。評を付けるときと同じ心構えで大丈夫です。自分はこのように受け止めた、このように感じたということを歌に盛り込みます。たとえば、先ほど例に出した「うら寂しい感じ」を

月静か ただ虫の音と風の声

などと詠んでみます。これは「ただススキばかりが生い茂っている風景」を「うら寂しい」と受け止めたうえで、それを「別の切り口で」表現したものです。返歌は難易度が高いので、上手くできなくても心配は無用です。

難易度が高いとは言いましたが、もちろん、手立てがないわけではありません。今回の標題にもなっている「同化」と「異化」という考え方が、上達に役立ちます。これはつまり「相手と異なる部分を探して、ではどこか共通する部分はないかと考える」「相手と共通する部分を探して、ではどこか異なる部分はないかと考える」ということです。

今回の例でいえば「うら寂しい感じ」を「共通するもの」(だと返歌を書いた人は解釈している)としてまず取り上げ、ではその共通の感じ方に異なる点はないかと探し、最初の歌が「視覚的」であったのに対し自分は「聴覚的」な歌を書いた、ということになります。

さらに続けてみましょう。返歌をもらった人は最初の歌を「ススキが豊かに実っている」つもりで書いたので、この返歌には「おや感じ方が違うな」という感想を持つでしょう。そこから出発して、相手と自分が一致する点を探ります。

薄の穂 白波めきて ざはざはと

今回は「音に注目する」「風に注目する」という2点を盛り込みました。不思議と、最初の対立点であった「豊かな感じ」と「うら寂しい感じ」が歩み寄っているのがわかるでしょうか。それと同時に「音や風の感じ方」という意味では、両者の違いが鮮明になっています。これは、最初からその様に意図したわけではなく「同化」と「異化」について探っていくうちに自然とこうなったものです。

先ほども述べましたが、返歌を詠むのは難しいので、慣れないうちは「もし折りよく思いついたら書いてみる」程度で差し支えありません。

本歌取り

何ということはありません。返歌に最初の歌の一部を引用するだけです。たとえば、

秋雨に化粧を急くや青紅葉 な去りそ雲よ未だしきゆゑ

という歌に対して

染めもせで 落つる葉惜しめ青紅葉 隠れ月だに未だしき間は

などと返します。最初の歌と同じ語句を使う都合上、必然的に「共通するものから出発して異なるものを目指す」形になり、似たような言い回しで印象の異なる作品に仕上げるのが原則ですが、慣れないうちはあまり気にしなくてよいでしょう。

俳句や川柳で本歌取りをすると、もともと字数が少ないため、どうしてもパロディ的なものになりがちです。それはそれで悪いものではありませんが、短歌くらいの長さがあると、より自由に本歌取りできます。

技法としての本歌取りを真面目に考え出すと技巧的なことをせねばならない錯覚にとらわれますが、返歌をいくつか書いていれば自然と同じ言葉が入るものも出てくるので、あくまで「共通するものから出発する」ための手法の1つと考えるとよいでしょう(実は、説明の都合で本歌取りの項を後に回したため、返歌の項では本歌取りにならないような作例を捻り出すのに苦労した:「尽き」と「月」は言葉を改めて受けたものなので大目に見て欲しい)。

返歌の手法としての本歌取りに習熟してきたら、古人の歌からの本歌取りにも挑戦してみるとなお楽しみが広がります。異なる時代の人が同じ場所を訪れて、同じことばを用いて異なる詩趣を歌にする。心躍る話ではないでしょうか。何度も述べたように、返歌や本歌取りには技術的な難関がありますが、それをはるかに上回る魅力も秘めています。取り組む価値は十分にあるでしょう。

なお、翻案のようなものも「本歌取り」と呼ばれることがありますが、定家が「昔の歌のことばを改めずよみ据ゑたるを即ち本歌とすと申すなり」と言っているので「狭義の本歌取り」は「ことばを改めて詠み込む場合」を含まないと考えられます。

まとめ

その1の冒頭でも触れたように、歌作りを味わうということは人を味わうということに通じます。「同化」と「異化」の2方向を自由に行き来できるようになれば、その楽しみがさらに増すことでしょう。

次回は、季語や音数など、後回しにした形式的な約束事を(いつになるかわからないけれど)概説する予定です。

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