創作の心得


創作者の意識

気付き把握することと転化し提示することがひと続きになったとき創作と呼び得る。芸術的でない創作もあれば創作によらない芸術もあろうが、創作とはそのようなものである。

創作者が能動的であることは必ずしも美徳ではない。詩人を例にするなら、「詩にする」ことは「詩を作る」ことよりも、「詩を示すこと」はそれよりさらに貴い仕事である。

全体の流れと中間点としての自分の役割を一度は意識せよ。意識した後は忘れてもよい。

たいていの作品には、ある種の陳腐さや無様さやチャチっぽさがついて回る。これらを目の敵にすると窮屈になり、ともすれば身動きがとれなくなる。なにかしらの「あそび」によって柔軟さを得るのが王道、技術と形式の刃で切り払うのが覇道といえよう。

何かを規定しようとする動きは美を損う。現に在るものに触れる動き、開かれた目、澄まされた耳の働きを内包しないものに美は生まれない。「誠実さ」とか「率直さ」といった言い方も的外れではないし、筆者は従来「描く意識」という表現をしてきた。

創作とは常に従の立場で行うものである。何を主とするかは任意であり、そこに自分自身が含まれても差し支えないが、従たる自己を持たずになされた創作は醜態以外のものを生まない。主従を呼応に置き換えても同様である。

創作者は常に、より親しいものを描こうと努めるべきである。遠い世界を描くこと自体は誤りでないが、詭道である。これを弁えないと容易く欺瞞に陥る。近いもの親しいものを描くことは困難で、それを乗り越える手がかりを持つことが創作者の資質といえる。


創作者の資質

理を描くなら理に通じよ、美を描くなら美に通じよ、人を描くなら人に通じよ。その努力が通じない自覚と、通じずとも放棄しない熱量があって初めて、描くものと真剣に向き合うことができる。

描く技術は優れていた方がよいが、余人を圧倒するほどでなくても、描けるものはある。

自分が描くものと描いたものに一定の敬意を抱けないなら、おそらく創作とは別の活動をしていたのだろう。

基礎技術は意図的な積み重ねの上にしか成り立たないが、習得速度に差はあっても、誰もが身に付けられる。


詩の創作から演繹し得るもの

よまれて詩情を残したことばが詩である。

他の無数の情動と詩情を分かつのは再生を導くかどうかではないか、詩情には滅生の効果が欠かせないのではないかと思える。たとえば人の認識を覆す作用に注目すれば、数学の公式も短時間的には詩的であり得る。

それ自体はさして重要なものでないが、最小形式としての無言詩はたしかに存在し、無言詩が詩として機能しない場面では他の詩も用をなさない。反対から言うと、無言詩と同軸の広がりをもつものが詩なのだろう。「よまれて詩情を残したことばが詩である」という筆者の主張を認めるならば「よまれずとも流れている詩情」が無言詩に違いない。

詩の創作というのは、比喩や掛け値をまったく含まない意味で、単にことばを並べるだけの行為である。作者はそれがよまれて詩になることをもちろん期待するが、しかしそのためにただことばを並べるのである。

詩人は、ことばが妙なものであることに驚き、全能であることを信じ、無力なことを弁え、それらをすべて忘れ去らねばならない。

詩人がもっとも忌むべきは言い張るという行為である。現に在るものに目を瞑り、あまつさえそれを塗り替えようという企ては、詩と正反対に位置する。

「詩の弁護」は詩人と聖職者を掛け持ちした人の方便以上のものらしい。良書を定義できるかどうかは別として、悪書を見分けるうえで教育的効果には一定の役割がある。つまり、愚かな人たちだけが好み、読んだ後益々愚かになるのを免れなければ、悪書の疑いがある。賢い人も愚かな人も好み、読んだ後賢くなる人も愚かになる人もいるのであれば、おそらく悪書ではない。

詩というのは普遍的なもので、極論すればこの世のすべてが詩で満ちている。それを取り出す術を持った人がたまたま詩人と呼ばれるが、詩に親しむこと自体は誰にでもできる。

ただ1人作者自身にしかよまれなくとも、理想論として、詩はその存在をまっとうできる。

極端な短時間を想定しないかぎり、詩の作用は不定か、少なくとも極度に複雑である。


創作という行為

でっち上げるのはそう難しくない。それをやらずに済ませるのは難しい。

わかるようにしようという作為は、たとえそれが児童向けの図書のようなものであっても、有害無益である。どのような事象も実際にそうであるようにしか理解し得ないものであり、たとえば微分方程式の解法を小学生が理解できるように説明しようとしても役立たずで不正確になるばかりなのと同様に、わかるまでの道筋を明確にする努力はできてもわかるための条件は省けないのである。

あらゆる作り話の中でもっとも程度が低いのは「いんちきな成功劇」である。ただしたとえば、桃という食物の神秘性に同意する人が読む限り、桃太郎はデタラメでない。

たとえば探し物を、10回探してやっと見つけたとしよう。最初の9回は「無駄なこと」をしているに過ぎないが、しかし見つけるために必要な過程に違いない。


作品との対峙

創作者は同意を尊ぶべきでない。また自分自身が同意を覚えるという理由で作品を良しとしてはならない。誠実に描かれた作品は、必ず受け入れがたさを備えている。そして創作者自身がもっとも強くその影響を受ける。子守唄やお囃子にさえ、注意深く聴けば人を寄せ付けぬ領域がどこかしらに潜んでいる。

作品を自分から切り離す術を身につけよ。作品は作者と断絶して個性を得なければならない。少なくともへその緒くらいは切れていなければ個として成り立ち得ない。この意味で作者と上演者が分業する形態は技術的な利点を導き得る。

忘我(commitment)と作為(art)はどのような創作にもいくらかは必要である。作品を自らの支配下に置こうとする限りこの両輪が揃うことはない。

解釈について意識過剰になるのは避けよ。解釈される前の段階、感受の時点で作品の役割は完結している。解釈はただ余韻にすぎない。いわんや評価をや。


技術的な問題

創作上もっとも重要な技術は鑑賞眼である。

技術の習得は、必要に迫られたときないし技術自体が興味の対象となったときに最大の効率を得る。両者の比率や絡み方によって、いわゆる作風が若干の影響を受ける。

形式による制限は枠の役割を果たす。狭く頑丈な枠を用いれば、より激しく大胆な衝突が生まれる。

ステレオタイプとは簡略表現である。簡易に描写すべき個所と詳細に描写すべき個所をよく弁えよ。

人として「ゆらぎ」を持つことは詩想を捕える上で有用である。古来「まどひ」とか「おどろき」と呼んだものがそれである。ただし、同じ場所を堂々巡るのは「ゆらぎ」ではなく、安定の一形態である。

より高い技術が有用なのは論を待たないし、技術の追求自体がある種の芸術性を持っていることは疑いようがない。しかし通常の創作において、理想的には技術が後から充填される形、より乱暴なやり方では技術がねじ伏せられる形で、機能が生じる働きを忘れるべきでない。


神聖さ

創作には「大きな異物の存在感」がどうしても必要である。

神と聖の字が誤解を招き得ることは認めざるを得ない。しかし、現に在るなにかが現に在るゆえに動かしがたいということが根にあって、それに作用するためでなく作用された結果として創作物があるという成り立ちを考えると、神聖というほかにないのである。

抗い得ない流れ、あるいは抗う術を忘れさせる流れ、さらにあるいは抗う意味を消し去る流れ、そのようなものが通り抜けるのをどうやって感じ取るか。

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