定型詩を念頭に話を進める。
詩には形式があるのだが、実はその前の段階、つまりことば自体が一種の形式である。経験や思考をことばにするという行為は、不定形な認識を形式に合わせて切りそろえ振り分けていく作業に他ならない。詩には、抽象的なものを抽象的なまま直接に表現する可能性は残っておらず、その点で絵画などの芸術とは一線を画している。
ことば自体が形式であるということをひとまず受け入れると、ではそのことばによる表現をさらに詩の形式で入れ子にする必然性はどこにあるのか、ということが問題になる。
ひとつには、ことばが形式であるということの延長として、それを強化するという目的がある。なべて詩人というのは、形式の扱いに長けているものである。楽器でも絵筆でもなくことばを選んだという事実がそれを裏付けている。混沌の内にあるものを秩序の元に引き出すのに、これほど格好の道具はそう見つからない。
美しさをもたらす効果というのももちろんある。ことばが音を持ち文字が形を持つ以上、美しく響く調子や見栄えのする文面というのがどこかしらに存在する。ことばや文字は我々の口や手から発せられて他人の耳や目に到達するものであるから、その流れを円滑にするため美の要素は欠かせない。
さらに、形式がことばをつくるという作用もある。たとえば、美しく響く調子や見栄えのする文面というのはことばの成り立ちによって自然に決まってくるものだが、いったんそのような形式ができあがると、今度はことばの方が形式に添う形で進化をする。日本語の定型詩は5音と7音を基本に成り立っているが、この慣例が成立して以来、5音と7音で構成された形式にうまく溶け込むようなことばが選択的に生き残ってきたはずであるし、そうでないことばは形式と衝突しないような形に変化してきたはずである。
けだし、高度に洗練された形式というのは慎重に用いるだけで単なる感傷を芸術の域まで引き上げる程の力を持つ。唐詩やソネットなどが好例だろうし、日本の俳句なども、約束事をそれなりに守って文語で書けばかなりのご利益に与れる。
複雑になりすぎると自己目的化する場合もあるが、そういった場合にも形式は一定の役割を果たしている。たとえば古今集の物名などは形式の追求が行きすぎた例だが、その競技的な意義はもちろん、在原業平のかきつばたの歌(国歌大観の歌番号410:この歌を羇旅歌に入れたのは、ひょっとすると貫之の嫉妬ではないかと想像している)のような恐るべき傑作も生まれている。いろは歌なども、形式が築いた最高峰のひとつである。
もちろん、だた従うことだけが形式の用い方ではない。形式に従わないというのもひとつの方法である。たとえば日本語の定型詩は7音の句で終わるのが形式に沿った形であるが、俳句ではあえて5音の句で終わらせている(ただしこれは無闇にやっているのではなく、俗語を重用する傾向と対になっている)。5音の句は後に続く形であるから、そこには強烈な違和感(終わっているのに後に続く感じ)が生まれて、それが俳句という新しい形式を特徴づけている。