束縛するもの

人を束縛するものは無数にある。それは息苦しく、また窮屈でもある。しかし一方で、人は束縛されて初めて形を留めることができる。


原風景と正当さ

過去の経験が思考や行動に与える影響は非常に大きい。しかし、それに「原風景」という名称を与えてただ片付けるのは迂闊に過ぎる。

われわれをもっとも強く束縛するのは「痛み」の記憶である。痛みを連想させる事柄は生理的な不快感を喚起する。この不快感は原因を自覚しないまま現れることが多く、単純な恐怖よりもやっかいな性質を持っている。目の前の事柄が「受け入れがたいものである」という身体的な訴えがまずあり、そこに「受け入れがたさの理由」を求めた場合、強引な理屈や解釈が捻り出されがちになる。

幼少期に叱られた記憶や褒められた記憶は、身体的な作用は弱いものの解釈に強く影響する。たとえば幼少期に箸の持ち方を厳しく躾られた人は、箸をきちんと持てない人の存在に戸惑う。これはある種の非常事態であって、解決を目指してやはり理屈付けが行われる。もっとも単純な解釈には、相手が不当であるというもの(積極的拒絶)と、自分とは別の体系に属する人だと考えるもの(消極的拒絶)がある。前者は権威的な補強を必要とすることが多い。

また、たとえば幼少期に絵を描いて褒められた人は、同じ行為または同一視が可能な行為によって周囲に認められたいという強い欲求を抱く。他の理由で賞賛を得た場合と比較して、喜びや達成感の度合いが高くなる。


ストレスと帳尻

心理ストレスに晒されると、それを「マイナスのできごと」として解釈し、同量相当の「プラス」を求める心の動きが生じることがある。この要求はさまざまなスパン(数分~数十年くらいの単位)のストレスを対象にし得るが、一般的な傾向として、ストレスの強度が高いほど短時間での対応が求められるように思う。

一連の動きを支えているのは「苦行と褒美」の経験であろう。犬に芸でも仕込むかのような乱暴な教育方針ではあるが、簡便さでは圧倒的に有利だったため、昭和初期の大きな混乱のあと1970年代にはすでに主流を占め、1990年前後には完全に普及したと思われる(資料からそう判断しているのではなく、あくまで筆者の感覚)。

またここには「ノルマ型の成否判断」も絡んでおり、ノルマを達成できない場合原則として褒美がゼロになるか減少する。褒美が目減りすること自体を客観的に見ればそう大きな損失ではないはずだが、子供にとって大人から否定的に扱われることの心理的圧迫は大きい。なぜそこまで過酷な(大人をも心労で殺せるような)方法を用いるのかといえば、やはり誰にでも簡単にでき管理が有効に機能している気分を味わえる点が評価されたのだろう。親が暇になりすぎた、ということの影響もあるかもしれない。

ただし、これらの動きと通常よく見られる「憂さ晴らし」や「八つ当たり」などとの間に、決定的な境界は見出せないように思える。もちろん、マイナスとプラスの釣り合い状態を目指すのとプレーンな状態に戻そうとするのとでは指向が異なるが、そもそもプラスマイナスの判断自体が主観的なものであって、決着がついたことにできそうな落しどころがあれば容易に引き摺られる。


当て嵌めの思考

少なくとも日本において、当て嵌めの思考というのは非常に大きな存在である。なぜそういうことになったのか経緯はよくわからないが、ロジックの面でもメンタリティの面でも、多くの日本人が当て嵌めに大きく依存している。

筆者が知る限りもっとも顕著なのは、1960~70年代生まれの男性を中心とした「オタク」と呼ばれる人たちの言動で、たとえば映画1本観たとしても、そこに無数の当て嵌めをせずにはおられず、また当て嵌めをすることでなんらかの達成感を得ている節がある。年代によって当て嵌めの基準に差異があり、1940~50年代生まれの世代ではいわゆるステレオタイプが好まれ、1980~90年代生まれの世代では条件を満たすか否かで分岐するフラグ的なもの(または条件をどの程度満たすかで評価するパラメータ的なもの)が多い。

1960~70年代生まれの世代はちょうど両者の過渡期に当たるようで、当て嵌めの極端な例がここに見られるということは、判断基準の混乱が方法論の自己目的化を促進したのかもしれない。権威主義的な傾向が見られるのも混乱期の特徴だろう。ステレオタイプが普及していれば(個人個人が求めなくても最初から権威があるため)積極的な権威主義は必要ないし、フラグ/パラメータは即物的な利益を元に設定されるため権威の出番がない。両者の中間にあるラベリングだけが権威を積極的に要求する。

当て嵌めという方法論は一貫しているものの、このような背景の変化がそれぞれの世代を特徴付けているのではないかと思われる。


さて、思考停止の無難な実践方法として、当て嵌めには一定の利用価値がある。際限なく思考すればいつかは「思考するだけで時間が足りなくなる」わけだから、どこかで停止させる必要があることは論を待たないが、当然ながらできるだけ安全に停止させる方がよい。その意味で当て嵌めは有用である。ぶっちゃけて言えば「物事を深く考えずに済ます」ために「とりあえず当て嵌めで把握しておく」ということである。動機としては時間や労力の都合が主だろうが、単に習慣でそうする場合もあるだろう。

問題なのは、当て嵌めが自己目的化すること(ブレーキとしての役割を果たさなくなるどころか、それ自体がアクセルになる)と、当て嵌めが「思考の方法」であると錯覚することだろう。前者にはすでに触れたので、表題にも挙げている後者についてもう少し考えてみよう。

思えば「当て嵌めて考えろ」という教わり方をせずに成人する日本人というのはほとんどいないのではなかろうか。本来なら「考えずに済まさなければならないときは(誤解のリスクはあるが)当て嵌めろ」である。この錯誤が面倒な結果をもたらしているように思えてならない。

背景となる基準(ステレオタイプやフラグ/パラメータ)が安定している間は、黙々と当て嵌めを行うことで「当て嵌めて考えたことにする」のがどうにか可能かもしれない。しかしそれが揺らいだ場合「ブレーキをバタバタ踏んでいるのにまったく前に進んでいない」ことが本人にも自覚できてしまう。これはかなり危機的な状況であって、ブレーキをアクセルに改造したがる者が(最初から無謀なので完全に成功することはないが)出てきても不思議ではない。


どの世代で主流になっているやり方もそれぞれに欠点を抱えてはいるが、当て嵌めに頼らずものを考えるには相当な修練が必要で、また十分修練をした人でも常にそうするのは効率が悪い。簡易な代替法というのはやはり必要であり、その限界を弁えた上で、各人の状況が許す範囲で手間のかかる方法も取り入れていくのが現実的なのだろう。


傲慢と思い上がり

たとえばパチンコに没頭する人を見て、愚かだと指差すのは簡単である。主張自体はまったく間違っていない。しかし、自分から遠いところに置いた人を非難するのは、行為として厳粛さに欠ける。

彼らの言う「経験」だとか「実績」だとか「分析」だとかいうものと似たようなロジックが、一生にわたって自分には存在し得ないという確信がどこから生まれるのかといえば、傲慢からである。反対に辿ると、傲慢さというのは「愚かさを自分と隔絶した別種の属性だと思い込む傾向」「マイナスの要因を自分より低い世界に閉じ込めたことにする習性」だといえる。

いっぽう思い上がりは、もう少し単純な構造で「実際にはないプラスの要因を有していると勘違いすること」だが、傲慢との対比をより明確にするなら「現実から遠いところに有能な自分をでっち上げること」だともいえる。

このような誤信の根本に不正確な現実認識があるのは間違いないが、さらに元を辿れば、想像と現実の隔たりを「現実がおかしい」というロジックで処理していることが多く、前提条件として現実を軽く扱えるメンタリティが必要になる。つまり「現実は覆せる」というのがもっとも純粋な形態の思い上がりで、「現実よりも俺が考えた内容の方が重要だ」というのがそれに次ぐ。

上記のような定義をひとまず受け入れると、傲慢さは精神的な安定以外のメリットをもたらさないが、思い上がりは有用に機能する可能性がある。憧れとか理想といった形態がそうで、実際に「現実を覆して有能さを発揮する」動機として働く限り、少なくとも有害無益ではない。傲慢さと同様の危険性を持つのは、覆っていない現実を「覆った」と言い張る場合である。有能な自分が関わることで簡単に状況を改善できるとか、まして他人をよりよい方向に導けるといった思い上がりが無反省に行使されると、救いようのない醜態を生む。

結局のところどちらも「ことにする」とか「言い張る」といった行為を「遠さ」が支えている。もっといえば「遠ざける」ことが最初のきっかけになる。ごく稀な例外がないではないが、傲慢や悪種の思い上がりを定着させた人は、親兄弟など「最初から近い」はずの人をも遠ざけて、寄り付こうとはしない。


原理主義と反現実と短慮短絡

原理主義それ自体は、近似的手法としておそらく有用だろう。現実と非現実と反現実の関係は科学と非科学と反科学の関係に似る。原理主義がときとして危険性を孕むのは反現実的な思考と結びつくからで、それ以外の主義主張一般と変わりない。

主義主張によらずとも、短慮と短絡が結びつくと現実と乖離した思考が生じ得る。これは反現実というより疎現実と呼んだ方がよさそうだが、両者は容易く結びつく。

では反現実が即忌むべきものかというと、筆者には肯じがたい。たしかに、反現実的思考は近いところに向いているとき有害である。前項で挙げた「傲慢や悪種の思い上がり」も反現実的思考の一種に数えられようが、それらが「より近いところ」まで食い込むと実際的な不利益が多く生じる。

いっぽうで反現実的思考が遠いところに向いているとき、それは単なる誤謬や誤信に近く、悪く見ても偏見や逃避的憧憬の類と同程度のものではないかと思える。現実をくまなく把握することが不可能な以上、過敏になるのは得策ではなさそうである。


苦行信仰

2012年現在も、日本人の思考には苦行信仰が生き残っている。本場の修行僧と同様の苦行を行う者はめったにいないが、それでも、滝に打たれたり炎の上を歩いたりといった行為がいくらかの説得力を保っている。ごくカジュアルな場面、たとえば子供向けのマンガの中でさえ苦行=能力向上の図式が通用しており、いわゆる「スポコン」ものはもちろん「サイヤ人の修行=死にかけると能力が上がる」などもその例に挙げられよう。

本人にのみ向けられた苦行信仰は、少なくとも他人には無害である。しかしこれが外向きに適用されると、たいへん厄介なロジックを生む。すなわち「相手のためにやっている」という主張のもと他人に「危害」を加える人が出てくる。90年代にスラングとして一瞬流行った「似非軍曹」や「リアル軍曹」の発想も、根本的にはこの信仰が支えているのだろう。

現在の我々は信仰を任意に捨てたり拾ったりできる精神構造を得ていないので、そのようなロジックに陥りやすい性質を、十分自覚する必要がある。いっぽうで、この荒唐無稽な思考を「ただの恥」として片付けるのは惜しいようにも思うのは、筆者も苦行信仰者のひとりだからだろう。


理由提示と結果論と粗探し

「AだからB」という形の短絡した理由提示は結果論と結びつきやすく、結果論を振り回すことで粗探しが始まる。手続きの精度を欠いた結果論(たとえば、どんな巧者でもじっと待ち構えていればいつかは失敗するし、デタラメな方法を用いてもなにかの偶然で成功することはある)はそれ自体で不毛ないし有害なものだが、ここに正当不当の短絡が加わるとさらに厄介な思考を生む。

もっとも極端な例は「粗探しの成果を誇らしげに掲げる人」で、傍目には理解しがたいことだが「自分は粗探しに成功した(つまり相手は悪い結果を出した)、ゆえに相手は間違っている、ゆえに自分は正しい」というロジックが実際に機能しているらしい。これらが「自分は偉大な人物なので、常に有意義な行動を取らねばならない」という自己信仰と結びつくと、結果的に「他人の粗を探しては自分の正当性を確信し、得意気に糾弾を繰り返す人物」が生まれる。またこの人は自分の失敗を隠蔽したがり、悪者を作り出して攻撃し、失敗が自分に属さないというアリバイを強引に主張する傾向を持つだろう。

そのようなときに生じ得る弊害と比べれば、たとえば「穏やかな原理主義」がもたらす多少の非効率が、ごく些細なものに思える(少なくとも、厳粛さへの指向をまがりなりにも有している分、対話が成立する可能性が皆無ではない)。正当性への強すぎる執着が生む弊害の顕著な例だといえよう。


人生のほとんどの部分は素晴らしくない

「あなたは誰であるか」という不毛かつ荒唐無稽な問いに、素晴らしい回答を用意するべく徒労を強いられる子供は不幸である。稀有な天才の飛び切り調子がよかった時分を引き合いに「ではあなたはどうであるか」と迫ることが、どれだけ有害であるか計り知れない。これは大人の怠惰である。現実的な努力を真っ当にしたことがないから、うわべの都合が好さそうな理屈を振り回して疑問を抱くことがない。そうした闇の中で育った子供が、また怠惰な大人になって次の子供の首を絞める。

もう一方で、愚かさは商業的に食い散らかされるのが常である。きらきらした紛い物を手にぺてん師が近付いてくると、子供は笑顔に溢れていなければならないという強迫観念に駆られた親たちは「子供が喜ぶ」と安堵する。絵に描いた「素晴らしい将来」に大金を払い子供を従事させる。そうしてまた、何も身に付けることなく育った大人が世に溢れ、誰にも急かされないのに切羽詰まってはでたらめをやる。

これは切実な危機である。努めることを放棄してから人が死ぬまでの期間が間延びしたために、また同時代人が一斉に怠惰になってゆく安心感のために、見ようとしなければ見えないが確かに危機である。各々がただ努めることでしか動かすことのできない危機である。そのような戒めを筆者自身にも課して、この項の締めくくりとしたい。

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