倫理について

具体的行動の規範としての倫理 / 思いのほか長持ちしなかった土着性
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省みるに、私たちには倫理を持つべき動機がない。

具体的行動の規範としての倫理

倫理とは、それがなくては生存に関わるから尊重されてきたもので、21世紀の先進国家で生活するために必要なものではない。控えめに言っても、倫理的でないことに対する即時的なペナルティは、100年前と比べてごく小さくなった。

もちろん私たちは道徳を持っている。道経を乱暴に要約すると「立場のある者は余計なことをするな」ということで、同様に徳経は「無難に、無茶をせず、浪費はせずに気前よく」という方針を示している。これはおそらく今日でも有用な教訓だろうが、個人のもつ規範という意味での倫理ではない。

勧学修身は、何事も努めなければ成らず正しく努めるには礼が重要だと実用的であるものの、動機についてはぽっかりと空白である。このような結果を得るためにこのような働きかけが必要だと説いて意味があるのは、示された結果が真摯に求められている場合に限られる。古代の人たちは秀でなければ滅んだが、私たちはそうでない。

個人の行動に可否を示し、また促し禁じるような規範を、保持するべき理由も失ってまた得るべき理由も私たちにはなかった。神と悪魔では神の方が長生きしたが、悪魔が滅ぶとともに神もうやむやになった、と喩えられなくもない。新しい悪魔は無尽蔵に生まれるが、神は所在が知れぬままである。

思いのほか長持ちしなかった土着性

1998年ごろ、オーストラリアからの留学生に「日本には誰もが怒り出すような強い罵り言葉がないのではないか」と聞かれたことがある。このとき筆者は「ある」と即答できた。その例として挙げたのは「お里が知れる」と「親の顔が見たい」である。

2013年も半ばを過ぎた今、これらの罵り言葉が日本人を激怒させる力を保っているかどうか、筆者には疑問がある。聞いたこともない外国語で侮辱されたときと同程度の、敵意に対する条件反射以上の反応を、どれだけの日本人がすることだろうか。

土着性は単に土が生むのではなく、強制し強制される都合と仕組みのうえに余儀ない経験が積まれて成り立つものだろう。私たちは自分で想像した以上の自由を手にしていたのだともいえる。

問題の中心

判断して行動する基準だけでなく、それを行うべき能力も機会も失われつつある。悲観的な予測として、倫理がまったく存在しなくなるというのはそう突飛でないように思える。少なくとも、現実的な考慮に際して倫理が存在するという前提を置くにはあまりにも危うい。

誤解のないように指摘しておくが、これは(原典の意味でない)いわゆる性悪説のようなものとは異なる。いわゆる性悪説は「悪い倫理」を前提とするし、歴史的に見ても、それが「人間同士」の紛争だとみなされる限り常に倫理は存在すると期待されてきた。

そうではなく、人に作用する強制力が弱まり、また強制される経験やそれに応じる手段、より根本的には人に作用する強制力が存在するという発想自体が失われつつある、という事態こそを倫理の喪失と呼ぶべきである。

代用品

感傷では話にならない。行動を支配的に左右するほどの美意識を持った人たちや、たまたま触れた世界から万難を排して余りあるほどの興味を得た人たちがいないではないが、稀有な個人による例外に過ぎない。そもそも、個人の資質を問わねばならない点に無理がある。もちろん、生まれながらに倫理を有するような都合のよい天然を、私たちは得ていない。

ようやく当てになりそうなものといえば利害だが、これはとんでもない難物である。倫理と同様に「これを是としよう」という明確な合意のもと小さな集団で用いる場合には有効に機能し得るが、そのような合意が生まれる背景にはやはり何かしらの強制力が働いているはずである。

また利害は、少なくとも存亡に比べて非力である。単純な利益が目の前に転がっていれば多くの人がそれを手に取るだろうが、骨身を削り自らを律しても利益を得ようという人は稀で、そのような意欲を持った人を選別して集団を成さなければならない。選別のための手順が理に適っている必要があるし、選別から漏れた人は考慮の外に置くほかない。

私たちの道徳に照らして「有害無益が甚だしい行為だけでも控えよう」と主張することはできるが、多くの人には自分の行為が利であるか害であるかということに注意を払う動機さえない。たとえ明らかな危機が差し迫っていたとしても、それが現実のものだと認識する習慣がない。これが私たちが得た余裕なのである。

詩も消滅し得る

筆者は詩人であるから、最大の関心事はそれである。

月を愛で風に親しむのが人の天然であったとしても、それを形に成し味わうためには必ず作為を要する。芭蕉の凄味に触れることは日本人にしかできないだろうが、日本人になるためには日本人として生きた経験が必要なのである。

正直なところ、このぼんやりとした空洞を相手に、強い働きかけをしようという気概を筆者は持ち合わせていない。あるのは、古く脆い足場が用を成している間に、いくつかの詩が書けたらという希望だけ。それが筆者の得たなけなしの切実さである。

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