動機に貴賎はない。 自分のことを狡いと感じたとき、立場の強さを振り回したことに気付いたとき、期せず唇から離れた嘘を目の当たりにしたとき、それらの認識自体が代償の全額である。 「君のために言っているのだ」と口にする相手を説得することはできない。「彼(女)のためにしているのだ」と口にしながら他人に危害を加える人とは、ごく単純なものを除き意思の疎通もできない。 愚かさを滅することができるという認識もまた愚かである。たとえば粗探しの成果を得意気に掲げるのは減点法でも減点主義でもなくただの愚行であって、一定の方法論や主義主張にはるか満たない。であれば、粗探しに情熱を燃やす人が接近してきたら、無理に作ってでもなるべく早く粗を見せるのがよい。彼らの多くは、粗探しに失敗するとより一層躍起になって自らの優秀さと暇さ加減を示そうとする。 人を以て言を廃せずというのは正しい姿勢であるが、だからといって人の徳を無視するのは危うい。思慮深い人は思慮深い評価を下すし、高潔な人は高潔な案を示し、熱意ある人は熱意ある人を連れてくる。これらの命題の裏もまた真で、そのことを弁えた上で有用な要素を探す努力を怠るなと教えているのである。またさらに、徳を備えた人たちも常に有益なことばかり言うわけでないことに注意しなければならない。 けだし人にとっての愚かさは、海にとっての水のようなものだろう。水がただちに海であるわけではないが、海には水がある。 自分は善良である、という自意識を得ているのであれば、有能たらんとする意思は絶対に必要である。無能な善意は恐るべき害悪をなす。 歴史を無視することはできない、という主張を言い換えると、現在に作用することはできても現在を変更することはできないということであり、これはまったく正しい。働きかけは常に微分的に、結果は常に積分的に振舞う。 目録的な知識は、頭に入れるより素早く取り出せる形で資料化するのが望ましい。辞書を丸々1冊記憶できる人はめったにいないが、辞書を素早く引くことは練習と心がけ次第で誰にでもできる。 物事を単純化して考えようという試み自体は間違っていない。問題は単純化の精度と、そもそも単純化が有効な場面かどうかという判断、単純な理解は欠落を伴うという認識の有無である。 直感に頼る人は錯覚を、集合知を尊ぶ人は衆愚を、良心を請う人は悪意を、ある程度受け入れねばならない。 体と心と頭という分類は不正確だが、ある種の利便性を生む。こう考えてみよう。肉体は王にして奴隷である。精神は貴族や商人である。頭脳は平民だろう。そうやってできた国を思うと、彼らの関わり合いが朧げながら想像できる。 原理主義という言葉はなんとなく悪い印象を伴うが、もちろん一律に悪いものではなく、とくに千年以上の年月を生き抜いてきた原理主義には相応の合理性がある。洗練された原理主義は、教条が明文化され変更されることがない確固たる信頼、反教条は非難されても非教条は排除されない度量と寛容、そして何より教条の陳腐化を上回る創意工夫に支えられている。本当の害悪は、弁えや反省や思慮の欠如にこそあり、それらは原理主義以外の主義主張にも常について回る。 俗っぽいようでも、安心感というのは常にいくらか必要である。 短所や悪徳は誰もが持っているものだし、不幸や災難は誰にでにも訪れるものだから、これらの間に関連を想定することで自ら律し戒めようとするのは、たしかに効率的で有用なやり方だろう。しかし不徳を災厄の原因と見るのは、いかにも迂闊で短慮が過ぎる。困難によりよく向き合うために必要であっただろう徳を、今からでも得ようと努めるために省みるのでなければ、結局のところ害の方が勝る。 現実逃避をまったくしない人はいない。言い換えると、自分の洞察力や思考力を殺すための努力を、誰もがする。ただ、実務家はそれを最小限度の一時的な働きに留めようとするし、芸術家には現実以上の認識を求める心持ちがある。 断じたいという心の動きを封じるのが不可能なのだとしたら、頭の中で決まったことに振り回されないよう心がけるのが次善であろう。 自作の観念に囚われがちな人は、度し難く騙し易い。 たとえば自分が妄想家であることを、恥じる必要はないが普段は忘れない方がよい。 条件をつけて人の話を聞かない人は、条件を満たしても結局話は聞かない。「実力があるなら言い分を認める」という人は、実力を見せようとすると邪魔をし、見せても難癖をつけ、非の打ち所がないほどに見せ付けると「あいつは思い上がっている」と陰口を叩く。 理由をつけて何もしない人は、理由がなくなっても次の理由を探す以外のことをしない。 有害な行動を繰り返す人が悪意の持ち主とは限らない。その人が可能な最善の行動がプラスマイナスゼロに到達しない場合がある。 たとえ緊急時であっても、有用なことばかりしている必要はないし、現実問題として不可能である。 不満は不安よりもやさしい。 貧すれば鈍す、術なくば妄す、窮すれば弄す、学なくば詐す。人を育てるということは、まずこれらを避けるということである。 私たちが中国人に「過而不改、是謂過矣」と教わってから1000年以上経つ。論語には「君子和而不同、小人同而不和」ともあり、孔子家語には「良藥苦於口而利於病、忠言逆於耳而利於行」とある。少なくとも、あと1000年くらいは解決する見込みのない問題である。 たいていの場合、問題は有害な働きが多いことではなく、有益な働きが不足していることにある。最初に注目すべきは、何が問題かでも何が必要かでもなく、有益な働きを遮っているものは何かということである。 組織において有害なのは、高い地位が要請する慎みを弁えない人、味方に攻撃を加える人、妄想や願望を振り回す人だが、これらを排除することは不可能で、たいていの組織にはすべてを兼ね備えた人が複数いる。実用的な組織とは、これらを可能な限り緩和し、またその影響下にあっても活動が停止にまでは追い込まれないような仕組みを備えた組織のことで、個々の能力や技術が問題になるのはずっと後のことである。 邪魔さえしなければたいていのことは上手く進む。だから、極力何もせず何もさせないというのは、マネジメントの手法としてそんなに悪いものではない。問題は、自分が積極的な妨害をしていることに気付かない人たちである。彼らの頭の中には、自分が何をやっているのか気付くのを阻止しているものが何かしらある。あるいは、自分が何をやっているのか気付こうという動機が最初からない。 中国では徳治と法治がせめぎあうことがよくあった。清末の体たらくが悪印象を与えるためか、前者の評判はそう高くないが、徳治もまた時代に磨かれ歴史的な大繁栄を支えた方法論であり、ガバナンスのあり方として一定の合理性を持っている。大帝国に限らずより小さな組織でも、この二つの間で右往左往している間は、よほど大きな外力が加わらない限り運営に大問題が起きることは考えにくい。片方に極端に振れると弊害が増え、また中国には極端に振れやすい気質があったようにも思われるが、しかしそれだけではまだ決定的でない。最大の問題は徳や法が形骸化したとき、つまり無反省な権威が徳の仮面を被ったときや、法が言い逃れと強弁の材料に摩り替わったときに生じる。そうなる前に折り返すことができれば安定した往復がしばらく続くはずだが、ときにはこの両輪が揃って堕落してしまうことがあり、大きな混乱を生んできた。 いわゆる能力主義や実力本位が正常に働いているかどうか、簡易に見分ける方法がある。普通の意味での競争が働いていれば、階級が上がるほどに苦労が多く、地位が不安定になるはずである。同様に、いわゆる成果主義や実績評価が適正に機能していると、他人の不手際や失敗を論う人が減るはずである。それらは成果にも実績にも結びつかないから。 優秀な人はたいてい、他人の失敗に寛容である。他人の失敗を認めないことが、自分の失敗を認めなくなることの入り口になると知っているから。 ことばを振り回せるのは、それが自分から遠いところにあるときだけである。自分に近いところにあることばを用いるとき、ほとんどの人はより臆病になる。 「ことにする」という行為は無色、「ことにできる」という認識は有色、「ことにできた」という確信は黒色である。 人になにか「してあげたい」というの心の動きは、それ自体で不当なものではないが、脆道の入り口にもなる。 成功者を名乗る人と失敗者を名乗る人はどちらも、現実を遠ざけることに慣れているという点で共通している。 都合のよさ、虫のよさ、体裁のよさ。これらは安全な投資だけで入手できると信じられている。 賢者は努力し、愚者は労力を費やす。賢者は工夫し、愚者は言い張る。賢者は現状を考慮し、愚者は過去にこじつける。賢者は事実から仮説を導き、愚者は仮説を支持しそうな事実を探す。賢者は愚挙を慎み、愚者は名案を振り回す。賢者は無能さを恐れ、愚者は優秀さを誇る。賢者は考えを改める材料を求め、愚者は決め付ける理由を求める。賢者は集って互いを糺し、愚者は互いに同意し自らの正しさを確信する。賢者は学びたがり、愚者は教えたがる。賢者は自分の愚かさを弁えるが、愚者は想像もしない。 活動的な莫迦が活動的でない莫迦よりも有害だというのは正しい。迷惑なのは莫迦の存在ではなく莫迦な行動だからである。しかし実際に引き起こされる災難の規模と破壊力は、個々の活動度よりも人数と地位が支配的に左右する。地位に拠らず単独で大問題を引き起こせるのは利口な狂人である。 謙虚は従順の別名ではなく、自分が関与可能な改善の余地を見抜き、それを実践する能力を指す。これを弁えないまま他人に「謙虚」を求めて憚らないのは、傲慢な振舞いというほかにない。 ばれないように工夫して嘘をつくのは盗人の仕業である。 人の不徳に訴えても不実である。少なくとも、同じ労力を徳に訴えることに使えば、はるかに大きな収穫がある。 「仕事だからしゃあねぇ」というのがプロ根性であって「よりよい仕事をしたい」というのはアマチュア精神である。ただしこれらは排他でない。 たいていの職場には、現実に働いている人と現実と戦っている人がおり、えてして、どちらの人たちも実際とは反対の自己認識を得ている。 搾取は、富の廃棄と結びつかない限りそれほど酷い状態ではない。全体の生産性が搾取に足る水準で、集積された財が大規模に運用されるなら、搾取者以外の者もそれなりに潤うはずである。生産性自体が低い不毛、人々が互いを損ね合う荒廃、富が何の用をなすこともなく朽ちる浪費、これらがそろってはじめて、本当に酷い状況が出現する。 美徳は友人を得るきっかけとして有用だが十分でない。温和さや高潔さ、優美さや愛嬌、技術や能力を愛する人はいくらでもいるだろうが、真の友人とはそれらを失ったときに背を向ける人のことではない。 人には格がある。たとえば他人の信用を得たいとき、信用に値する振舞いを黙々と続ける人に聖、信用ならない振舞いを慎む人に賢、信用せよと言い張る人に愚、信用しない相手を攻撃する人に狂の字を当てることができる。 たとえば嗜好をけなされたとき、感性のある人は残念な顔を、自信のある人は意外な顔を、感性と自信を兼ね備えた人は気の毒な顔を、感性も自信もない人は癇癪でも起こしたような顔をする。 「気に入る気に入らない」と「好き嫌い」は異なる。なぜなら、最初に知った何かを気に入ることも気に入らないこともあり得るが、選り好みは他をよく知って比較せずには成り立たないからである。 真っ当な発言や行動が非難や攻撃の的になるのは不幸なことであるが、それを嘆くのは愚かである。出鱈目をやる人たちがもっとも忌み、嫌い、恐れていることをやれば、出鱈目な反発を受けるのは目に見えている。だからこそ、当たり前のことを積み重ねる人は賞賛に値する。 少なくとも技術的には、「やりようはいくらでもある」ことを知り「発想はいくらでも使い回せる」ことを知り、それを実際に試すことができるようになれば一人前である。このため、一人前の技術を持った人は技術的方法論に一定の余裕がある。 他人に教えるときもっとも重要なのは自分自身がどれだけ知っているかということ、本来の目的以外のことを紛れ込ませないことがそれに次ぐ。 愚かさは恐るべきものである。愚かさから逃げ切れる人はいないが、愚かさに身を任せない努力はできる。立場は人を作るが地位は人を愚かにする。優秀さは愚かさを防ぐ盾にはならない。自分の愚かさを知る手立ては貴重なものである。 なぜ物事が悪くなるのかを考えると、結局、権力が安易であること、矜持が怠惰であること、人が卑屈であることに行き着く。なぜ物事が良くならないかを考えると、現実が省られないこと、勝手と無関心が横行すること、なすべきことをなせる人がいないことに行き着く。何度も思い知っているはずなのに、いつの間にか忘れられてしまうことである。 正しいことを言うのは容易い。正しく有用なことを言うのは難しい。正しく有用で現実的なことを言うのは不可能に次ぐ。 たとえばこんなのはどうだろう。天国に至る途中には2つの門があって、1つめの門は人を敬愛し人に敬愛された人しか通さない。2つめの門ではただこう問われる「この門をくぐれば彼らと顔を合わせることになるが、入るかね?」と。 頭で考えるほど難しくはないが、口で言うほど易しくもない。