ことばを用いるということ


ことばを用いるというのはどういうことか、一言でいえば他人に頭を下げるということである。


たとえば、筆者が「山」と言ったときに「地面が盛り上がって高くなった地形」を指しているのだと伝わるのは、筆者自身の手柄ではない。これまでに存在した無数の日本語話者がそのような意味でことばを用いてきたおかげである。

人は裸一貫で生まれてくるわけだから、土俵に上がろうと思えば他人の褌を借りるほかないわけだが、この恩義を忘れる者が多いというのは情けない話であろう。

ことばなど実用の役に立てばよいという人たちの消費行為を咎めるつもりはないが、苟もことばによって他者の心情に何かを訴えようというのであれば、借り物の褌に相応の敬意を払っても罰は当たるまい。のみならず、その褌は自分よりも後の世代に受け継いでいくものであるから、味噌をつけて引き渡すのでは申し訳が立たぬというくらいの分別はあってしかるべきであろう。


喩話が長引いたが、大切なのは「自分の用いることばが今までどのように使われてきたのか」ということに敬意を払い、よりよいことばを後世に残そうという心がけである。

ただ「よいことば」とだけ言ったが、これは各人が勝手に考えるよいことばであって構わない。本人がよかれと思っていても実際は違うということはままあるが、よしあしに無神経でいるよりはずっとましである。先達への敬意と後輩への気遣いの両輪がそろってさえいれば、そのようなことは些細な問題である。よしんば学習による解決ができなくとも、それが真剣な努力の結果であれば尊重すべきであろう。

ことばというのは、大勢の人の「ものの考え方や感じ方」が結晶したものだから、ことばを用いるというのは他人の考え方や感じ方を受け入れるということでもある。ことばを用いるとき、考えや気持ちは伝わるだけでなく、積み重なって後に残るものなのだということを心しておきたい。

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