ゲームとゲーム以外に関する余談

もともと「ゲームに関する余談」というタイトルだったのだが、いろいろ詰め込みすぎたのでタイトルを変更したら、意味がわからないことになった。


イメージするもの

チャンバラのイメージは正直あまり具体的でないのだが、実写映画(イギリス製のローマ物とか昭和末の大河ドラマとか)が近いかなぁ。魔法戦闘はゲームの方が印象が強くて、ドラゴンバスターとかワルキューレの伝説とかハイドライドとか、便利トリックや奥の手的なイメージ。ファイアーボールに関してはソロモンの鍵のファイアーボールこそまさにファイアーボールだと思う。あの爽快さと不便さと頼もしさはなにものにも代えがたい。カプコンD&Dの魔法もカッコイイ(マジックミサイル大好き)と思うが、正直あれはちょっとやりすぎだった。やっぱりMP制より回数制の方がオモシロイなぁ。

ゴブリンは尖った靴に帽子被ってワイン飲んでるイメージで、見た目としてはファミコン時代のFFのゴブリンがわりと近い(白雪姫に出てくるトワーフと、こっち系のコボルトを折衷したような感じだけど、色は緑じゃないし服も着てる:初期のD&Dでは黄色~オレンジ~真紅だったはずで、最近のイラストだとオーガとトロールを混ぜて小さくしたような、けっこうゴツめの感じになり、色はカーキ~褐色くらいみたい)。緑のゴブリン(も別種としてアリだと思う)はなんといってもカプコンD&D2のゴブリン。あのうっとおしさと嫌らしさが「緑の」ゴブリンらしさだと思う。ちなみにコボルトはカプコンD&D(初代)のゴブリンをちょっと大きくしたようなイメージ。

機動兵器はヴイナス戦記(最初のタコの後~最後のタコの前あたり)、人型兵器はボトムズ(クメン編とか)とメロウリンク(前半)、サイボーグや暴走アンドロイドはアップルシード(コミックと最初の映画)とブラックマジック(OVA)ってとこかなぁ。ブラックマジックのアンドロイドの動き、今見ても凄いよねぇ。バトルテック(アーケード)の印象は(あんなにやり込んだのに)なぜか薄く、メックウォーリアーみたいなバッタ系のイメージもそんなにない。カーチェイスはデイトナUSAとかかなぁ(カーチェイスゲームじゃないというツッコミは不要)。

ファランクスは片手剣(グラディウス)持ってるイメージがなんとなくあるが、ギリシアのファランクスは槍(ギリシアものの映画なんかでもたいてい剣持ってるよねぇ)。原始ファランクス>重装歩兵化>アテナイでイピクラテスが軽装歩兵化(ペルタストとの融合)>マケドニアでピリッポス2世が長槍(サリッサ)を本格導入>ローマがファランクスを導入するが単なる密集方陣の意になる>第二次ポエニ戦争のときスキピオ・アフリカヌスがヒスパニア式片手剣(グラディウス・ヒスパニエンシス)を輸入>長槍(ハスタ)+投槍(ピルム)の2本持ちからピルム+グラディウスの2本持ちに変化(散開戦術の発達)、みたいな流れのはず。盾で張っ倒して剣でトドメを刺す戦術はとてもステキだと思う(盾押し戦術自体はギリシア時代からあり、オティスモスというらしい:このときに優勢を得るため(ともちろん側面を攻撃しやすくするため)に縦深が増したのだとか)。大盾(スクトゥム)普及前のローマでは小型の丸盾も用いられたようだが、おそらくはペルタ系(前腕一体化タイプ)のものか。

筆者の理解だと、兵器には「運用可能な最大戦力」を重視するものと「コストパフォーマンス」を重視するものがある。2013年現在の主力戦車や戦闘機のような「大規模運用でスケールする」兵器は、前者を重視しつつ後者を一定レベルまで引き上げたもので、容易には無視できない優位性を持つ(ファランクス時代から基本は変わっていないのだと思う)。これらを脇役に押しやるなら「大規模運用できない理由」が欲しいところ。サイバースペースを比喩表現する必然性はあまり感じない。

未来都市については「極端な効率化と分業」「人口の自然減少」「動機を持たない人々」といったあたりがキーワードになるか。2020年追記:1次産業とインフラの公営化ってのもあるかなぁ。社会主義に近い制度の国がこの先どのくらい(またどのように)存在感を示すかで早い遅いは違ってくると思うが、インフラに近いところを民営化していくってのは、長期的にはスジが悪いように思えてならない。都市部への集中と地方のゾンビ化が極端なところまで行き着けば、「自立しない地方」として折り返すしかなくなる(そしてその転換が早い方が有利な)のではないか。競争原理がインフラの発展を助けるとしても、成長ではなく存続が優先課題になるときがいつか来ると思う。


WizardryとUltima

ウィザードリィとウルティマは発売年が同じ(1981年、どちらもAppleII:Unixで動くRogueの方が1年早く発表され1980年)だが、それぞれもっと前に試作品(WizardryとPaladin、Akalabeth)があったらしい。日本でのFC版はどちらもちょっと変。ウィザードリィはFC版が1、3、2の順に変更され、ウルティマは3だけ出た。どちらも4以降イキナリ作風が変わる。

ウルティマは3(1983年、日本版は85年)もけっこう違い、地下が線画3Dなのは同じだが、地上戦がシンボルエンカウント方式になった(カリーンの剣やロマンシングサガなどに引き継がれた)。乗り物やワープなども3が初出のはず。いっぽう1と2の地上戦(ドツキ合い方式)は、ハイドライド(初代PC88版が1984年)やワルキューレの冒険(船はスキーズブラズニルなんだろうなと思うが、クジラはいったい何なのかいまだに不明)やゼルダの伝説(ともに1986年)に引き継がれ独自に発展する(ワルキューレやゼルダには84年のドルアーガの塔なども影響していると思う)。意外なことに、ハイドライド(初代はBASE-80という「Z80用のBASICライクなアセンブラ」で組まれたそうな)はアスキー版のWiz(85年)よりも発売が早い。BASIC系も先進的で、信長の野望の第一作(全国じゃない版)が83年で全国版が86年、大戦略シリーズの第一作である現代大戦略(ターン制で経験値あり)が85年(1982年のPC-9801発売が後押しになったらしい)。コンシューマ機のハード事情としては、86年にディスクシステムとセガマスターシステム、87年にPCエンジン、88年にメガドライブ、90年がスーパーファミコンというのが区切りになるだろう。

思うに、日本のコンピュータRPGは、ドラゴンクエスト(86年5月)以前のハイドライド、ワルキューレの冒険、ゼルダの伝説、ドラクエ~ドラクエ2期(87年1月)のディープダンジョン(86年12月:開発はハミングバード、スクウェアが旗振りをしていたディスクオリジナルグループ(DOG)という共同ブランドで、流通もスクウェア)、ドラクエ2以降のイース(87年6月)、FC版女神転生(87年9月:PC版も同年発売だがまったく別ゲー)、カリーンの剣(87年10月:開発はクリスタルソフトで、これもDOGブランド)、ファイナルファンタジー(87年12月:ファンタシースターより2日早い)、ファンタシースター(87年12月:ウルティマ寄りに思い切り振ってあった)と、なんとなく毛色が分かれている。実は、ディープダンジョンはファミコン版のWizよりも発売が早く、筆者も先にこちらを知った(というか、Wizのファーストインプレッションは「パーティを組めるディープダンジョン」だった)。Wizやウルティマに比べるとマイナーながら、グラフィック演出や時間の概念や他ゲームからのキャラクター転送やオートマッピングやバードの歌など新機軸を盛り込んだバーズテイルは、実はファミコンでも(ほとんど別ゲーだが)発売されている。いっぽうローグは、97年にWinRogueが出たくらいで商業的な移植は少ない(ソースコードが行方不明になった後に作られた派生作品は、UNIX系のシステムを中心に多く出回った:Rogue CloneやXRogueだけでなくソース非公開のものを含めて、複雑かつ歴史の長い派生の歴史があり、Roguelikeと総称される)。不思議のダンジョンシリーズなど、ローグのリファイン的なゲームも多数出ている。

なお本家本元のD&Dは73年に私版公開で翌74年に商業化(TSR版のいわゆる「オリジナル」で、以降ベーシックセットの系譜になる)、AD&Dの初版が78年(2000年の3rd edition以降、こちらが「D&D」と呼ばれるようになる系譜)、日本最初の商業訳D&D(新和版)が・・・これ何年だかよくわからないのだが、83年のBasic Set 4th editionを元に85年に日本発売でいいのかな(近所に住んでいた同級生の兄が発売直後の赤箱をみせびらかしてくれた記憶はあるが、あれが何年だったか・・・多分85年?)。アメリカでは、T&Tが75年、トラベラーが77年、ルーンクエストが78年。イギリスでは混沌の渦が84年でウォーハンマーが85年。日本ではロードス島戦記コンパニオンとソードワールドが89年に発売されている。2000年代に入ると、D&Dは00年の第3版から14年をかけ第5版(多言語展開は17年解禁)まででルールの現代化が進んだ(2008年の第4版で別ゲー化したのをきっかけに、第3.5版ベースのPathfinderが09年に発売され、18年に日本語版も出ている:Pathfinderの第2版も18~19年)。T&Tは05年の第7版から15年の完全版でひと段落。ルーンクエストはモタついたが、06年のいわゆるマングース版から12年の第6版を経て、15年には権利関係が整理されて紆余曲折に決着がつき、ケイオシアム版(いわゆる新ルーンクエスト)の展開に目処が立った。なおd20システムは、Open Gaming Licenseというコピーレフト的な規約によりオープン化されている(詳細は公式サイトの配布ページを参照:第3.5版準拠のものは外部サイトで公開されているものしか見つけられなかった)。さらに、新ルーンクエストのクイックスタートとその日本語訳、D&Dのベーシックルールも(コピーレフトではないが無料で)公開されている。

Wizやウルティマ以前のゲームには、PLATOシステム(最初のバージョン(1960年完成)はILLIAC Iという真空管コンピュータで動いていたとかいう超絶古株のコンピュータシステムで、Unix(黎明期が60年代中ごろ、バージョン1が1971年、PDP-11以外に初めて移植されたのが78年)よりもずっと先輩:AppleIが1976年、AppleIIが翌77年、PC-8001が79年、IBM PCが81年の発売で、それ以前はゲームといったらメインフレームをつないだネットワークで動かすものだった模様)上のm199h、Monster Maze、Pedit5、Orthanc、dndといったものがあるらしく、Moria、Oubliette、Avatarと続くそうだが、筆者はどんなものなのか知らない(Andrew Williams のHistory of Digital Games、Richard A. BartleのDungeons and Desktops、ロールプレイングゲームサイド Vol.1などの書籍に言及がある)。


シューティングとかパズルとかアクションとか

縦シューは下手だが好きで、戦国エース(アイン)とストライカーズ1945(スピットファイア)はかなりやった(3本柱&ザリガニ止まりで、1週目のラスボスも拝めずじまいだけど)。正面に遅くて重いサブウエポンがある機体でないと使えない体質。もともと東亜プラン系の縦シューは好きで、究極タイガーやスラップファイトあたりはチョコチョコ触っていたし、達人王も齧る程度に、戦国エースの台が空かないときはBATSUGUN(TYPE-C)もやっていた記憶がある。ガンバード(じじい)や1945II(たしかモスキート)も多少触ったが、シリーズを重ねるごとに覚えゲー化が極端になりついていけなくなった。虫姫さまは初代だけチョロっとやってみた程度(だけど、シューティングで単純に「面白いな」と思ったのはティンクルスター以来だったし、それ以降一度もない)。ティンクルスタースプライツは独自に攻略を練っていてそこそこやれるつもりでいたが、後になってガチな人たちと対戦する機会を得たときにはズタボロに負けた(操作スキルが段違いで、そのうえ対戦ゲーとしての戦略も相手が上ときては勝負にならない)。

シューターでもない奴の勝手な持論ではあるのだが、単純なバラ撒きは筆者のイメージする「彩京弾」とは違う(だいたい、言われ始めた頃の彩京はそんなにバラ撒かないメーカーで、横シューみたいな弾幕が縦シューに入ってきたの自体もっと後になってからだと思う:ボスの高速弾幕は「発狂弾」と呼ばれていてまた別物、だったはず)。明確でシンプルな殺意のある「見えるけどかわせない弾」というか、布石としての固定弾はもちろんあるのだが、弾幕自体ではなくやはり「トドメを刺しにくる弾」が筆者にとっての彩京弾である。そういえば「喰らいボム」って言葉も意味が変わったなぁ。昔は「死にボム」(ボムは発動しているが無敵時間の前にやられる)とほぼ同義だったのだが、今じゃ「やられているがボムで救済」という反対の意味になった。良い悪いではないし、そもそも瞬間無敵でないボムは苦手なのだが、ああいうテイストがなくなったのは少し寂しい気もする。グラフィックも自分がやり込んでいた時期のがやはり好き。ストライカーズ1945の紀伊はホントにかっこよかったなぁ。

古い縦シューは・・・あんまりやってない。スターフォースとスターソルジャーはファミコン版でちょっとやったが、スペースインベーダーやゼビウスは触ったことがある程度、ギャラガはアーケードでちょっとだけ齧った。アーケードで「見かけたらやってみる」ようになったのが究極タイガーとか達人(TATSUJIN)とかそのくらいの頃で、知らないところに行ったらシューティングのラインナップを眺めるのが習慣になったのは戦国エースくらいから(今記事をかくのに調べたら、これって達人王(92年)の翌年(93年)発売なんだね、先進的だったんだなぁ:スペースインベーダー78年、ギャラクシアン79年、ギャラガ81年、ゼビウス83年、スターフォース84年、タイガーヘリとツイビー(とスペースハリアーとグラディウス)85年、スラップファイト86年(そんな新しいゲームだったんだ・・・)、究極タイガー(とアフターバーナー2)87年、雷電が90年ですって)。横シューはほとんどやらないが、初代のグラディウスとR-TYPEなら触ったことはあるし、パロディウスの3つめくらいのやつ(極パロ)とラストリゾートはけっこうやった。ガンシューもあんまりやらないが、レールチェイスは仲間内で人気だったので多少齧った(他に初代のガンバレッドとドラゴンガンだっけか・・・まだいくつかやったけど名前が思い出せない)。

パズルゲームはほとんどやらないのだが、ティンクルピットだけはなぜかやり込んだ。多分性格的に、アクション要素が強めでパターンが崩れたときの立て直しに醍醐味があるゲームが好きなんだと思う(そういえばディグダグもけっこう好きだったような記憶がうっすらとある)。ファミコン版のソロモンの鍵もけっこうやったけど、パズル部分はカンニングしてたので自分の中ではアクションゲーム扱い。レースゲーは・・・アウトラン何種類か、初代のリッジレーサー、デイトナ何種類か、ナムコのF1のやつ、、、くらいかなぁ、思い出せるの。ファミコン版なら初代のF1とかジッピレースとかディスクのF1とか、あとファミリージョッキー。定期的にやってたのは初代リッジだけだと思う。スポーツゲームは最初のほうのファミスタとサッカープロール(だっけ?ネオジオのサイボーグサッカー)くらいしか触っていない。クイズネオアンドジオはなぜか仲間内で人気だった。

アクションは全般に苦手。アーケードのダブルドラゴンはそれなりにやったし、クライムファイターズやガンドレットやファイナルファイトも少しは齧ったが、決して上手くはない。それでも、キャプテンコマンドー(キャプテン)、ナイツオブザラウンド(アーサー)、キャディラックス(ムスタファ)、天地を喰らう2(黄忠)あたりは(マルチプレイ中心だが)チョロチョロやっていたし、初代の天地を喰らうやエイリアンvsプレデター(プレデターハンター)なんかも多少は触った。メタルスラッグは2までは間違いなく触っているが、3以降は記憶があいまい。カプコンD&Dは初代のときはエルフを使っていたはずだが、D&D2になってなぜかマジックユーザーとドワーフがメインになった。基本的に、落ちてる武器は必ず拾いたい性格で、飛び道具が大好き、キャラ選択もそれが前提になっていることが多い。


似てる?違う?

仮面ライダー倶楽部 激突ショッカーランド(1988年2月)と半熟英雄(1988年12月)とか、超兄貴 爆烈乱闘篇(1995年9月)と初代サイキックフォース(1996年4月)とか、偶然にしてはソックリなゲームがけっこうあるが、開発者(というか下請け?)が同じだったりとか、そういう事情でもあるのだろうか。テイルズオブファンタジアとスターオーシャンのように、同じ人たちが作ったのがわかっていて、それがゲーム内で示されている(アイテム名同じにしたり)ケースもある。

エストポリス伝記(初代テイルズの開発元と同じ母体)のように、ゲームが似ているわけではないがBGMが丸々流用されたなんてパターンもある。まあこの例に限れば、どうにも言い訳できないレベルでソックリではあるのだが、「作曲者のクセ」というか「同じ人が作ったから似たような曲になっただけ」で押し切れちゃうようなケースが出てくると困ったことになりそう。もともと、ゲームの音楽って権利関係がユルかったからなぁ。超兄貴のBGMとか、一時期テレビでガンガン使われてたけど、あれはどういうルートでああなってたんかねぇ。作った人にメリットが多い形で運用されてたことを願う。

メドューサってなんで誤植扱いになったんだろう。Μέδουσαをラテン文字に写してMedoūsaが英語に入ってMedusaなら、メドューサでもメドュサでもメデューサでもマデューサでもメヂューザでも可だろうと思う(googleさんに読んでもらうと、ギリシア読みは「メドゥサ」に、ラテン読みは「メドゥーザ」に近い感じになる)。ワォーハンマー(ワーとウォーの間を表現したいという情熱が伝わってくると思う)とスォード(黙字の「w」と拗音表記の「ォ」がいいバランス)も、ゲームっぽい表現としてありなんじゃないのと思える。許せないのはワァーウルフで、これはワェアーウルフにするべきだった(複合技のワォーウルフはけっこう好き:わおーって感じで)。なおジオン公園(Zion National Park)はアメリカのユタ州に実在するが、陰謀があったかどうかは定かでない。


妖精の由緒

オーガはゲルマン由来らしく、フランスあたりではやや小型で愚鈍かつ臆病、赤子を攫って生肉を食べる残忍な種族とされていたようだ。北欧では山の中に独自の文明を持つ金持ち種族だったらしい。トロールは「全身に毛が生えた巨人」が基本線だが、北欧では小型の種族で、盗みや神隠しを起こす一方気に入った人間には肩入れするなど気まぐれな性格、オーガとの習合もみられる。どちらもゲルマン系の妖精に多く見られる高い変身能力を持つ。トロルが日光で石化するというのはトールキンの創作だろうと思っていたのだが、ノルウェー~アイスランド系の伝承でそうなっているらしい(ちゃんとした論文を見つけたので詳しくはそちらを参照:こういう情報他にもあるんだろうけど、個人じゃ偶然見つかるものを拾う程度の探し方しかできないんだよなぁ)。

ケルト神話のプーカからイギリスのパック、さらにイングランドの一部で愛称化しピクシーとなる系譜はトリックスターの性格を持ち、地方バリエーションが多い。プーカの時代は妖怪や物の怪の性格が強かったようで、姿も変えるが牛・馬・山羊など大型草食哺乳類への変身が多い。日本の昔話にも出てくるような「人知を超えた力、朴訥さ、気まぐれ気まま」などを特徴とする存在。イギリスでは変身のバリエーションが増えるとともに悪戯好きの性格が強調され、森林信仰とも習合して緑衣に、ピクシーには貧乏人の手伝いをするという要素も付帯している。ハッグとレッドキャップはどちらもイギリスのアンシーリーコート(Unseelie Court:直意は「祝福されない者たち」で、積極的に人に危害を加えるという趣旨)で、前者は日本で言う山姥や鬼婆、後者は人が多く死んだ場所でさらに死者を増やそうと人を襲う。さすがに指輪物語の国だけあって、有名な妖精が多い(大枠のところでは、16世紀末シェイクスピアのA Midsummer Night's Dream、19世紀末イェイツのFairy and Folk Tales of the Irish PeasantryとIrish Fairy Tales、20世紀になってからトールキンのThe Lord of the Ringsあたりが大きなインパクトになっている)。

その指輪物語で話がややこしくなったオークは、ローマ神話のオルクス(Orcus:プルートーと同一視されるようになるエトルリアの神様)由来と見られるオークナス(Orc-neas:オルクスの死者)がベオウルフ(トールキンの現代英語訳が2014年に出版されたそうな)に登場する一方、おそらくオルカ(orca:現在でもシャチの学名(Orcinus orca)として残っている)に由来する海の怪魚としても伝承されている。「恋するオルランド」「狂えるオルランド」「ローランの歌」「モルガンテ」などから成るシャルルマーニュ系の伝承には後者のオークが登場する(とても丈夫な鱗があったそうな)。この海獣(ないし海棲の大蛇ないし巨大魚)の系統は他と混ざりやすいようで、上のオルカのほか、レヴィアタン、ティアマト、ケートスなんかは、蛇扱いだったり魚扱いだったりドラゴン扱いだったりとバリエーションが多い。トールキンのオーク(ホビット語でゴブリンの意:だと後付けされた)は別個の創作で名前だけ借りた、と本人が言っていたらしい(他の種族が堕落してオークになるという設定が特徴)。

フェアリーという語は北西ヨーロッパあたりの「神様でない想像上の種族」を指す漠然とした名称で、ブリトン族(島嶼ケルト人の一派で、鉄製武器や戦車を用いた:前ローマ時代にイギリスで話されていた島嶼ケルト語が、スコットランド西岸~アイルランドに分布したゲール語、スコットランドに分布したピクト語(詳細不明でブリソン語に近縁か)、ウェールズやイングランドなどピクト語圏以南に分布したブリソン語(ブリタニック語)に分類され、ブリトンないしブリットの語自体はウェールズ由来らしい)の伝承にフェアリーが冷たい鉄を嫌うという特徴があることから、ケルト侵入以前の文明由来、あるいは被征服民そのものではないかと言われる。これらの古いフェアリーは、人と同じかやや高い身長とされることが多い。定義が緩くなるのも根拠を失った伝承の特徴で、ウィルオーウィスプやケットシーなど人型でないものもフェアリーに含まれる。さらには(キリスト教から見た)異教の伝承として禁忌的なイメージも付帯するようになる。フェアリーが行う悪さとして取替え子が多く伝承される。なお島嶼ケルトと大陸ケルトは文化的に類似してはいるが、血縁的な繋がりがあるかどうか(ゼロってことはないにしても、どの程度なのか)はっきりしていない。

ドワーフというのもまたややこしく、おそらくは北欧神話の妖精ドヴェルグ(Dvergr:トロールと同様日光に弱く、一部習合もみられる)由来なのだろうが、英語だと単に小人(や転じて矮性植物)のことで、ドイツのグリム童話「白雪姫」のsieben Zwergeがseven Dwarfsと訳されたりしている。ドヴェルグは短寿命な腕だけ長い小人だとされることが多く、3歳で成人だとか女性が存在しない(新しい個体は石から作る)だとかいった伝承があるそうな。北欧神話の一部(「スノッリのエッダ」)にドヴェルグを「闇のエルフ」ないし「黒いエルフ」とするものがあるが、この呼称が一般的なものだったかどうかは不明(エルフとドワーフの習合については後でまた触れる:ドワーフが単に小型のヒューマノイドを指すなら、小人化したエルフがその範疇に入っても不思議なことではないが、ドワーフの方がエルフの範疇に引き込まれるというのは面白い現象だと思う)。トールキンのドワーフはまた毛色が違い、複数形がdwarfsではなくdwarvesと表記されている。こちらはより人間に近い種族で、女性もいる(劇中の台詞がジョークでないなら、ヒゲは両性に生える)。魔法に疎いというのはかなり新しい(おそらくゲームの設定上の都合が影響した)特徴で、たとえば古エッダには魔法の心得があるドヴェルグとしてガンダルヴ(Gandálfr)が挙げられている(指輪物語のガンタルフ(Gandalf)はこれが名前の元になったか)。指輪物語のドワーフは持久力に難があるような描写があるが、こちらはゲームなどの設定にはあまり反映されていないように思う。

同じ「地下に住む器用な小人」としてはノームもおり、こちらはギリシア語のゲノーモス(Genomos:地中に住むもの)が語源で、男性形がグノーム(Gnom)、女性形がグノーメ(Gnome)らしい。これもトールキンが「エルフの一種」という変わった扱い(ホビットの冒険に「elves that are now called Gnomes」とあり、瀬田訳だと「いまはノウム(土鬼)と呼ばれている昔のあるエルフ族」)をしているが、のちの改版で解釈を変更したため、さらにわけがわからなくなった。パラケルスス(16世紀に薬学(毒性学)の分野で業績を残したスイス出身の軍医・錬金術師)に四大精霊扱いされ、かつ男性女性形に混乱が生じたのだそうな。なんでも、元の著作は「ニンフ、シルフ、ピグミー、サラマンダー、その他の精霊についての書」(Liber de Nymphis, Sylphis, Pygmaeis et Salamandris et de caeteris Spiritibus:俗称「妖精の書」)というタイトルで、3番目のピグミーの別名(ラテン語名)がGnomusだと説明される。同様にニンフの別名がUndina、シルフの別名がSylvestris、サラマンダーの別名がVulcanusということになっている(らしい)。ピグミーはギリシア神話のピュグマイオイ(Pygmaioi)由来で、大プリニウス(1世紀に活躍したローマの博物学者・軍人)が「博物誌」(Naturalis Historia)で「身長3スパン(約27センチ)ないしそれに満たないくらいで、泥の家ないし洞窟に住み、弓矢で武装し、ツルと戦っている」と説明している。

エルフは北欧神話由来で、スカンジナビア系の諸族を中心にゲルマン全体に信仰が広がっていたと見られる。地方神ないしギリシアのニンフのような存在だったのだろう。神話の体系上はアルフヘイムの王であるフレイが光の妖精アルブ(Alv)を率いることになっており、古ノルド語のa'lfrから派生した綴りで表記されるスカンジナビアのエルフや、おそらくはドイツのアルプ(Alb)などとも同根のものだろう。スカンジナビアのエルフ(現在の北欧ではalvと綴る地域が多い)はバリエーションが多く、一部には(昆虫翼を持った小人型の)フェアリーとの習合も見られる。時間の感覚を狂わせるというエルフの踊りは、浦島太郎の童話と似ているかもしれない。大地に住む妖精ヴェッテル(vetter)と習合した地域(ノルウェーなど)と分離したままの地域(デンマークやスウェーデンなど)がある。病気と治癒に関する特性もこの時期から得ていたようだが、ギリシアのアポローンのような豪快なものではなく、おそらくはニキビができて治る程度のささやかなものだったと思われる。ドイツではドワーフとの習合が進み、「ニーベルンゲンの歌」にはアルベリッヒ(Alberich:エルフ王)という名前のドワーフが出てくる。Alberichの名はフランスのAlberonを経由してイギリスのOberon(「夏の夜の夢」に出てくるエルフとフェアリーの王)になったという。イギリスのエルフはいろいろと入り混じりながら変遷しており、大まかにはニンフ的なイメージから残虐で悪どい(病気や悪夢を引き起こすという性格がより強調された)イメージを経てフェアリーと混同されるような感じだろうか(これもトールキンによって独特の設定がなされた:形容詞形がelfishではなくelvishと書かれる)。なお、ラテン語で白を意味するalb、ケルト語で山を意味するalpなどとは、同じ印欧語族なので何かしら繋がりがあるのかもしれないが、関連不明。

イギリスのゴブリンとドイツのコボルトは特徴が似ており、どちらにもバリエーションはあるが、おおむねは地下(や洞窟)に住む小鬼である。ドイツ語のKobold(もとは「悪さをする妖精」という意味だそうな)を英語読みせずgoblinと訳すことがあるし、ランペルスティルスキンのように、コボルトともドワーフ(小人)とも呼ばれる例もある。D&Dのコボルトはドラゴンの血を引く爬虫類で犬の「ような」顔をしているだけだった(その後のフィクションやゲームでは、竜の末裔という設定だけ引っこ抜いてほかの種族や妖精に貼り付ける例も見られる)。イギリスのゴブリンは、指輪物語で付与された「トールキンのオーク」の(ホビット語からの)訳としてのゴブリンのほか、トロールやドワーフやノーム(や一部ではフェアリー)などのイメージがごちゃごちゃに混ざっているように見える。ホブゴブリンはD&Dでゴブリンの大型種になったが、古く(少なくとも夏の夜の夢上演当時まで)は座敷わらしのような(悪どいときでも悪戯メインくらいの)存在だったらしい。ブラウニーもこの系統の妖精で、サンタクロースと一部習合している地域もあるそうな(ブラウニーがサンタの弟子だとか、サンタがブラウニーのチャンピオンだとか)。

上で座敷童が出てきたが、日本の古い妖精(妖怪)の代表格といえばやはり、河童、天狗、鬼だろう。河童は、水主(みづち)系:ミントゥチや蛟龍などと関わりがあるか、河伯(かはく)系:河伯はもともと中国の黄河の神様、哺乳類系:獺、猿、ヒトの水死体など、と複数の由来や系統がごちゃまぜになり、江戸時代にはカエルやスッポンのイメージなんかも付加された。天狗はもともと中国で「音を出す流星」を意味した。狗は犬系の動物を大雑把に指すが、天狗のほかに天犬というのもいたらしく、天狗の狗は「きつね」と読むのが普通(稲荷神と狐はもともと区別があったようだが、民間伝承に入って混同されたそうな)。山海経の天狗の絵は犬と虎の中間っぽく見えるが、本文には狸のような見た目だとある。日本に入ってきた当初は、山岳信仰と習合して漠然と山の神を指していたらしい。中世以降、鳶(のちにインドのガルダ由来の迦楼羅天とも習合)やら山伏やらサルタヒコやら崇徳上皇の怨霊やら、いろんなものと混ざってよくわからないことになった。鬼は中国で死霊ないし幽霊を指したが、日本でも初期には死のイメージが強かったようで、女性の姿が多かったそうな。平安時代の鬼の代表格である酒呑童子は、獅子や熊と人間を折衷したような外見で、人を食うという設定になっている(鬼に角がつきものになったのもこの頃らしい)。もちろん、仏教の餓鬼からの影響もあっただろう。明治以降、人型でアンシーリーな感じの西洋の妖精がまとめて鬼扱いされた(ピアノとかオルガンとかマリンバなんかがまとめて琴扱いされたのと似た話)。

ドラゴンが妖精の仲間に入るかはちょっと疑わしいが・・・少なくともファフニール(北欧神話に出てくるワームに変身してしまった人物:ドラゴンとワームの区別はとても曖昧で同義であることの方が多いが、リントヴルムは言葉の成り立ちが異なり、地面を這う(空を飛ばない)蛇を指していたそうな)はかなり妖精に近い成り立ちをしているように思う。ミズガルズの大蛇ヨルムンガンド(ロキとアングルボザの子)は、名前の後半「ガンド」が「動物型の精霊」を指すらしいが、こっちはドラゴンの仲間に入れていいものかどうかが疑わしい。ピュートーン、ヒュドラー、ラードーンの三大ドラゴン(今勝手に決めた:ラードーンはアイギーナの祖父にあたるというアルカディアの河神と同名だが、関係あるのかどうかわからなかった)をはじめ、ギリシアのドラゴン(ないし大蛇)はそれほど桁外れのサイズではなく、絵画に描かれたものを見ても山のようなサイズではない。プリニウスの「博物誌」に出てくるドラコも「象と相討ちになる」サイズ。ラファエロが描いた「聖ゲオルギオスとドラゴン」のドラゴンなんかはかなり小っちゃいし、ジークフリート(ニーベルンゲンの歌に出てくるネーデルランド王子で、ディートリッヒ(テオドリックがモデル)やエッツエル(本来の設定はサクソン人らしいのだがアッティラと同一視され、物語の都合上6世紀にタイムワープさせられた)と同時代の人:ファフニールを退治したシグルズ(シグムントの子)としばしば同一視されるが、起源は異なるor早い時期に分岐していたらしい)が退治したというドイツ系のドラゴン(ジークフリートとシグルズの習合を想定するならファフニールそのもの)もデカいワニくらいのサイズでの描写が多い。ウェールズのドライグ(Ddraig)も、ブリタニア列王史(偽書らしい)の描写だとワニにしてはデカいくらいのサイズで、もとはパルティアないしダキアから輸入してローマ皇帝トラヤヌスが軍旗に用いていたデザイン(トラヤヌスの記念柱に描かれているものは中国の龍に近いシェイプ)が、ブリトン人の間に定着してケルトの旗になったという(現在のウェールズ国旗にもドライグが描かれている:イングランドのウェセックス家もドラゴンを旗印としており、こちらもおそらくはブリトン人経由orゲルマン文化とケルト文化が融合した産物で、ヘイスティングスの戦い以降ノルマン系の勢力にもドラゴンの軍旗が流行したそうな)。日本のヤマタノオロチは、尻尾から出てきたという天叢雲剣(あめのむらくも:くさなぎのたちと同一視される)が普通の太刀サイズ(刀身二~三尺)だとしたら、三大ドラゴンとそう違わない大きさではないか。火を吐くドラゴンの記述はベーオウルフが古い。

エキドナ(「翼が生えた大蛇」という意味では三大ドラゴンよりも「ドラゴン」に近いのかも)やテューポーンくらいになるとさすがにサイズも違うのだろうが、テューポーンはハイモス山を持ち上げたりエトナ火山の下敷きになったりしているので、山より少し小さいくらいなのだろう(本気を出すと星に頭がぶつかるくらいデカかったらしいが、普段サイズを想定した場合:神様のサイズなんてその時々で思いのままだからねぇ)。エキドナはもともとイラン系の遊牧民スキタイ(遺伝的にはスラブ人の主要な祖なのだという:ペルシアではサカという呼称もあるが、サカがスキタイの別名なのかスキタイの一部を指すのか、説が分かれる)の女神で、ギリシア神話に取り入れられるとき怪物化したそうな。ナーガラージャに代表されるようにインドには蛇神が多く、そのコンセプトがペルシア(ゾロアスター教以前のイラン神話(古代ペルシア神話)にも、アジ・ダハーカという(おそらく翼を持った)蛇の怪物が登場している)経由でギリシアに到達した(あるいは反対にギリシアからペルシアに到達した)のなら面白い話。中国の龍も古いものは蛇要素が強く、蝮(マムシ)>雨龍(水中に棲み飛ばない、水に棲む大蛇の意で蛟(みづち)とも)>成龍(羽が生える?)>角龍(角が生える)>応龍(天地を行き来できるようになる)>黄龍(黄色くなる?)などと成長する(諸説の一例)。黄龍は麒麟との習合が進んだが、その麒麟は必ずしも黄色くない(ウロコと毛の両方を持っていて黄色いのは毛だけ、という伝承もある:青い聳孤(しょうこ)、赤い炎駒(えんく)、白い索冥(さくめい)、黒い甪端(ろくたん)、黄色い麒麟という区分もある模様)。ガルダとナーガを始め、鳥と蛇は信仰のモチーフとして一般的である(哺乳類が小型種ばかりだった頃からの習性で爬虫類や猛禽類は神格化されやすい、といった説明を目にすることもあるが・・・どうなんだろうね)。なお、ギリシアのオピオネウス(オピーオーン:クロノスと相撲で勝負して負けた蛇神)は名前にオピス(蛇)とつくが詳細不明。


アニメとコミックとそれ以外の話(余談の余談)

劇場版のイデオンはやっぱり傑作だと思う。作品を丸ごと崩壊させ、たわ言と現実逃避と茶番に発散させた手法は芸術の域と言っていい(が、二番煎じをやって面白おかしいようなものではないと思う:だいたいが、イデオンの美徳というのは「虫の好い話に現実的な破滅を与えた」ところにあるわけで、そこを外したら二番煎じ未満である)。太陽にほえろの「ジーパン・シンコその愛と死」が74年、ザンボット3が77年、イデオンの最初のテレビが80年というコンセプトの流れみたいなものは認めるにしても、イデオンが描いた「人死に」ってのはもう一歩先に到達していた(あるいは、そういったコンセプトの源流にある現実の出来事により肉薄していた)ように思う。時系列では、テレビのガンダム、テレビのイデオン、映画のガンダム、ザブングル、映画のイデオンと並ぶのだが、間に挟まったザブングルの挑戦と挫折、苦心と妥協、陳腐さと巧みさが、これまた興味深い(どうせ後追いするならコッチを追いかければいいのに)。

逆襲のシャアはたしかに佳作で、非の打ち所がないように見えてちゃんと大ポカをやっているあたりもポイントが高い(最後の最後でアクシズを押す方向が逆で、後ろ半分がブレーキかけられて失速しそうだってメランさんが教えてくれてるのに、みんな聞いてなさすぎ:だいたい「割ったら落ちない」って理屈(普通に考えると、アクシズが落ちる代わりに「割れたアクシズ」が落ちるだけだと思う)がどこから出てきたのか不明で、ブライトさんの「軽くなって落ちないはずだ」という謎発言(普通に考えると空気抵抗が増して失速しやすくなるはず)などもあり、作戦立案の時点で根本的な勘違いがあったとしか思えない)。心底どうでもいい余談だが、ハロの形状は北海道の妖怪ニタッラサンペ(アイヌ伝承で「湿地の苔の心臓」という意味らしく、羽が生えたマリモみたいな感じ)にとてもよく似ている(たぶん偶然)。

追記:最後で大ポカをやっていることがなぜ高い評価につながるかについて、野暮ではあるが少し説明しておく。あの最後の(落下し始めたアクシズをモビルスーツで押す)場面は、最初から茶番なのである。人々が「頑張る」べき場面はあそこではないし、ハッピーエンドをもたらす戦争なんてない、という認識が(作った人たちがどれだけ自覚的であったかは別として)前提にあって、覆水を盆に返すシーンにリアリティを求める動機が働かず、結果「これはインチキなのだ」という明示を伴うようになった、と捉えるのがいちばんドラマティックである。つまり、イデオンのラストよりはるかに巧妙な「話丸ごとの崩壊」が示されていながら、「現実的認識」と「甘い考え」のせめぎあいの部分ではある種の後退もあって、それでいて表面上はかなり丸く収まった体をしているところが、佳作たる所以なのである(その直後にあのエンディングテーマを入れたのは、商業的な都合で決まったことなのかもしれないが、結果的には効果的だった:劇場で見ないと「これでは道化だよ」という台詞がこだまして返ってくるのを感じにくいかもしれない)。

パトレイバーは今見返すとコミックの方が面白い(あーるもコミックのイメージが強いが、こっちはアニメも捨てがたい)。マクロスの本編はわりとどうでもよかったりするのだが、映画のエンディング(天使の絵の具)は凄いよねぇ。あのイントロでミンメイが動いてるシーンだけでも作品として成立するんじゃないかと思える。メディアミックスだかタイアップだか、安直化が進んだ続き物と違って、アイドルを1人でっち上げてやろうという心意気みたいなものが(いかにもチョロく安易な脚本など、見苦しいところも大いにあったが)初代のマクロスにはあった。同時期のZガンダムも本編はさておき後半のオープニングアニメーションは素晴らしかった。Zの新訳(A New Translation)版は・・・手直しとして見るならいい仕事がなされており、グダグダになった物語を小奇麗にまとめ直した手腕に文句はつけにくい。ただそれでもある種の後退があることを指摘するなら、旧版とは比較にならないほどの「拵え物」感が新訳にはある(語り手が物語に対して傲慢になったとも受け取れる:傲慢と言って聞こえが悪ければ作為的と言い換えてもよいが、筆者には結局同じことのようにしか思えない)。

80年代前後は音楽や挿入歌の類にも独特の輝きがあって、おそらく当時あまり儲からない商売だったジャズとかフュージョンの人たちが演奏しているのだと思われる。日本昔ばなしのオープニング(リメイク版じゃなくてテレビ版:昔はアナログ電波に乗せる都合で深いコンプをかけることが多く、その影響なのかどうかわからないが、中低音がやけに鮮明だったように思う)のエレキベースとか、コスモスに君との終盤のリズム隊なんかは凄い。奏者が凄いのか全体のアレンジが凄いのか判然としないが、疾風ザブングルのベースも不思議な雰囲気。歌モノだと「めぐりあい宇宙」のオープニングとか、テレビ版ボトムズのオープニングやエンディングが凝った構成。アニメではないがNHKの人形三国志(これは本編も前フリも秀逸)のエンディング(愛のテーマ)も、細野晴臣らしい緻密な編曲とヤケクソな歌詞が印象深い(作者が細野さんだということは随分後で知った)。ヤケクソな歌詞というと、ドラクエ2のネームエントリーの曲(「ラブソング探して」だっけ?)の歌詞もかなりのモノである(歌詞の存在自体を20年間くらい知らなかった)。

その後のゲーム音楽への影響を考えると、古代祐三の貢献は計り知れない(ミスティブルーとかアクトレイザーの音作りは、その後10年以上に渡って踏襲されまくった)。古代祐三の商業作デビュー(ザナドゥ・シナリオ2らしい)とドラクエでのすぎやまこういちのお披露目が、ともに86年なのも興味深い(なおFC版のWizは87年で、音楽を羽田健太郎、移植を遠藤雅伸のチームが担当している)。ニューラリーX(81年)、ディグダグ(82年)、ゼビウスとマッピー(ともに83年)あたりが「ゲーム音楽」の黎明期で、これらが細野晴臣の「ビデオ・ゲーム・ミュージック」で取り上げられたのが84年(80年のラリーXや81年のドンキーコングあたりから音楽っぽいものが添えられつつはあった)。遠藤雅伸と小沢純子(ZUNKO)のドルアーガは同じく84年で、マッピーの基盤を再利用するシステムだった。川口博史のハングオンは85年発表。当時の事情として、マシンパワーがアーケード>パソコン>コンシューマだった。

しかし昔のタツノコの絵ってやたらアメコミっぽいのが混じってる気がするのだが、どういう事情なんだろうなぁ。なかでもやはり、ゴールドライタンのショッキングさがたいへん印象深い。初手が犬の凶暴化という謎作戦だったウヨッカーが、二の矢として簡単に制圧した原発建屋内を武装したメカで徘徊、主役メカ(?)のゴールドライタンはというと、カニ挟み(背後から膝裏を狙ったロードロップキックにも見える)、蹴手繰り(相手のコケ方から立ち上がる相手の左足を左足内側で蹴っているらしく、蹴りのモーションから体重が乗った脚を刈っているというより体重が乗る寸前の脚を払っているように見える)、四本貫手(っぽいが、親指も含めて貫通させ中身抜きをする:五本貫手と呼んだ方がよさそう)2発という地味コンボでウヨッカーのメカを瞬殺、(原発の敷地内で)爆発炎上という、第1話だけでおなかいっぱいクラスのネタアニメだった。

ジブリの作品で印象に残っているのはやはり「耳をすませば」で、近藤喜文が凄いのか高坂希太郎が凄いのか見ている側にはサッパリわからないが、オープニングからして絵に「匂い」がある。物語の中盤で主人公(雫)が影の中にふっと消えるシーンなんかはまさに極上のアニメーションだと思う。それが荒唐無稽なシナリオ(元は少女マンガらしい)やオーバーアクションな演出(アリーマイラブなんかで踏襲され一般化したが当時は斬新だった)とあいまって、意味がわからないほどの不思議ワールドを作り出している。ただ世間の一部ではこの「荒唐無稽なシナリオ」ってのが・・・アニメ映画のシナリオが荒唐無稽であって何が悪いんだか。それともフォースやミノフスキー粒子なら荒唐無稽じゃないとでも言いたいのか、まあよくわかんないね、これはもう。

ルパンは・・・アレはルパン三世という1つのジャルンルなのだと思うが、なんというかアニメーションを作る側の事情がいろいろ反映されていて、時期によって豊作不作があるのが「らしい」ところだと思う(アンパンマンやドラえもんみたいなアニメ(のとくに劇場版)にも、似たようなことが言えると思う:アンパンマンの「勇気の花がひらくとき」とか、ブっ飛んだノリのものもたまにある)。初代の荒っぽさや2作目のヤケクソ感も好きだし、カリオストロの城(オープニングアニメーションがまた、冷静に見ると全然動いてないのに、やけにいい)の作り込みもさすがだとは思うが、アルカトラズコネクションのセンスも秀逸だと思う。やっぱり「んなアホな」と思わせないとルパンじゃない。テレビ版の第4部は(傑作には届かないかもしれないが)良作だと思う。アメリカのテレビがホームズ&ワトソンとかマクガイバーとかの再構成モノをやっていて、それがなかなか面白く(マクガイバーは吹き替えでもいいけど、エレメンタリーは字幕じゃなきゃダメよ:声が酷いだけで同じドラマがあれだけつまらなくなる、という見本にはちょうどいいかもしれないけど)ちょっと悔しいので、日本でも古めのシリーズ物を掘り返してみたらいいんじゃなかろうか。イギリスもパリの四銃士(The Musketeers)は悪くなかったけど、ヴィクトリア(Victoria)はどんどん酷くなった(日本のNHKが作る「ウケ狙いってこうですよね!」みたいな現代劇に近いレベルまで落ちつつある)。一方中国は時代劇をやっても昔の現代劇を掘り返してもダメ。あれって多分、現代中国語(ないし現代北京語)に品がなさ過ぎるのが根本原因なんじゃないか(現代日本語も目クソ鼻クソなのかもしれないが)。

メカアニメのテレビシリーズで全部見たのはBlue Genderが最後だったか(ギリギリ2000年にかかってるはず:人生でテレビを持ってた期間が10年もなく、たまたまそこに当たっただけで、とくに思い入れがあるわけではない)。ボトムズのリメイクだと思うとちょっと違う(むしろ雰囲気はどこかマクロスっぽい)し、エイリアン2を広いところ(あれ狭くないと成立しないよねぇ)でやっちゃったムリヤリ感が強く、登場人物が大騒ぎしすぎでうっとおしいのだが、これはとにかく犬死にのアニメである。1話丸々かけてやっとの思いで助かった人たちが簡単かつ無意味に死ぬ、数話がかりで追い詰めた敵役がチャカ1発弾かれて死ぬ、何の意味もなさそうなところで安全軽視な人たちが事故で死ぬ。そのサイクルをエスカレートさせていって、最後に盛大なちゃぶ台返しをやって終わりという、なかなかに爽快な作品だった。それより後で見たテレビアニメで記憶にあるのは.hack(知り合いの家でたまたま映ってたんだと思うけど覚えてない:このときはもうテレビ持ってなかったはず)。トレイラーなんだか予告編なんだかわからないが、ゲームの中という設定で丘のある草地みたいなトコを歩いているシーンをどこかで見て、音がすごく印象的(ゲームの音ってこういうんだよ、というイメージぴったり、ちょっとナムコっぽいような感じの:マルチメディア展開してるからホントにゲームの音だったのかもしれないけど)だったのだが、アニメの本編を(途中からまたどっかでたまたま)見て、あまりの退屈さにまたびっくりした(音声演出もまるで見どころがなかったし)。

テレビ版の砂ぼうずは普通に面白かった(これはどこで見たんだっけなぁ、テレビ持ってたっけなぁ、あの当時:でもリアルタイムで半分くらいは見たような記憶がうっすらある)。「人の思惑の乖離」みたいなものをちゃんとキープした脚本で、登場人物がひとり残らず、救いようがないほどの「勝手なロジック」を一貫して固持している。とくに夏子を「いじけたトチ狂い」のままで通したのは秀逸で、他の登場人物同様「自分のロジックを固持するがゆえにフェードアウト」してゆく(フェードアウトしないのは、固持するべきロジックが希薄な三兄弟、ロジックに開放性のある朝霧純子と柔軟性のある小砂くらい、主役であるはずの砂ぼうず本人までロジックの固着でフェードアウトする)。終盤で砂ぼうず(灌太)が小砂(太湖)を勧誘するシーン(灌太は「口止め」を指示しただけで「殺害」は意図していないはず:ファウストの第2部に似たような話があったよね)など、21世紀には珍しい「読ませ」の演出もある。原作はもっとアッサリかつ散漫に、短いエピソードをぺたぺた貼り付けながら話がスルスルと進んでいく感じ(なのだが設定上3年空けたところから異能力系になる)。DVDの「無修正版」はジャケットも笑える(8巻が秀逸)。

アニメでもコミックでもないが、スターウォーズ(最初に公開されたエピソード4が1977年、構想が本格化したのが73年らしい)のアイディアは本当に凄いと思う。ジェダイとフォース、ライトセーバーとその型、プラだか金属だかわからない装甲服、コミックリリーフとしてのドロイド(R2-D2やC-3PO)、光線兵器ブラスターなど、ファンタジーRPGにおけるD&Dと同様、さまざまなコンセプトを集約しその後のモデルを作ったハブとして、やはり偉大な作品なのだと思う(アンタレスの星のもとにとか、宇宙の戦士とか、元ネタとなる作品が大量にあるし、ヨーダの初登場がエピソード5(80年公開の2作目)だったり、途中から取り入れられた要素もある)。ファーストガンダム(79年放送開始)にしてもAKIRA(82年連載開始)にしても、メカもの+エスパーの組み合わせという意味ではこの枠の範疇にある。商業的にも、累計市場規模が5兆円を超えるとの試算があるらしい(日本のコンテンツでタメを張れるのは、2018年現在、ポケモンとアンパンマンだけだそうな:試算の方法によってももちろん数字が変わるが、他に有力なのはハローキティ、くまのプーさん、ミッキーマウスあたりらしく、年平均市場規模でも同じメンツが強い)。

サイバーパンクはこれと前後して、アンドロイドは電気羊の夢を見るか?が68年、ブレードランナーが82年、ニューロマンサーが84年公開。Wikipedia.ENに引用されたキーワードがたいへん的確だったので孫引きしておくと、サイバーパンクは「combination of low-life and high tech」(Sterling, Bruce. Preface. Burning Chrome, by William Gibson, Harper Collins, 1986, p. xiv.)を特徴とする。ハリウッドのメインストリームが、西部劇(50~60年代が全盛)、アメリカンニューシネマ(New Hollywood:60年代半ば~70年代半ば)ときて、ポジティブな基調をもつエンターテイメントものに移っていく過渡期の産物で、ニューシネマに対してアンチな態度と先祖返りしたがる感情の両方を示しているのが面白い。その後ろに、ハードボイルドのムーブメント(20年代末に始まり50年代くらいが最盛期、いわゆるバイオレンス・ハードボイルドも40年代にはジャンル化している)とその反動期があって、さらにはテクノロジーが「新しい実用品」を「研究所から一歩外」に出し始めた70年代後半からの波が被さる。社会的なイベントとしては、やはりベトナム戦争(武力衝突が本格化したのが60年、米軍の北爆開始が65年、テト攻勢が68年、米軍のカンボジア侵攻が70年、パリ和平協定が73年、サイゴン陥落が75年)の影響が大きかったのではないか。その後の湾岸戦争やアメリカ同時多発テロなどの方が、映像として映画やテレビで模倣されることは多かったかもしれないが、作り手の側の感受性を加味して結果的なインパクトを比べるなら、ベトナム戦争の衝撃はそれら以上のものだったように感じられる。

日本に目を向けると、サイバーパンクなコミックのメインストリームが、なんだか斜め方向にずれたまま戻っていない気がする。アップルシードは(もともと傍流系というか、ノリの軽さが特徴ではあったが)どこか遠い世界にお出かけしてしまったし、鉄腕バーディは面白かったものの、あれはサイバーでもパンクでもない。本流に近い遠いにどれだけの価値を認めるかは別として、結局一番サイバーパンクっぽかったのは攻殻機動隊の最初のコミックだったんじゃないのという気がする。そういう中でEDENはよくできており面白かったが、どーも日本コミック/アニメの毒気みたいなものから逃げ切れていなかったように思う(なんというか、サイバーパンクってのは特異なカジュアルシーンというか、世界の趨勢の一歩外側でドラマが起きて、世の人が関知しないところで何かしらの解決がある、みたいな部分が欠かせないと思うんだよねぇ:同じ作者の別ジャンル作品オールラウンダー廻では、その辺のモヤモヤがすっきりする終わり方だった)。同じ作者がソフトメタルヴァンパイアという能力系の話も描いており、こちらは和風X-MENというか、ファンタスティック・フォーをメンドくさくしたというか、少し毒気を取り戻してそれをスパイスに変えたような感じ(尻切れっぽく終わったけど)。コッチ方面はアニメの出来が絶望的なのがもはや普通になっているが・・・AKIRAやブラックマジックの頃と何が違うんだろうねぇ(なにもかも違うんだろうなぁ)。

ネタのハブという意味で、蜃気楼帝国(スニーカー版の1巻が91年:ロードスやソードワールドが89年だから2年後)は惜しかった。最初のノベル(スニーカー版:カバーを木城ゆきとが担当している)はそれ自体も面白くできていたし、精度はともかく、異世界をひとつデッチ上げてやろうという野心と意欲にあふれていた(「D&Dも知らない奴にファンタジーを云々」の心意気はダテではなかったように思う)。残念なのは、せっかく用意したハブ(というかプラットフォームというか、ようするにハピ・アスというネタ)が広く活用されることなく「試供品のお披露目」だけで終わってしまったことである(2004年に復活しかけたのだが、尻切れになってしまった)。いわゆる第一部(スニーカー版の1~5巻)は(伏線(foreshadowing)系でなく傍線(sideshadowing)系の構成になっているだけで)ちゃんと完結しているので、焼き直しではなく第二部を別に起こした方がよかったのかもしれない(タラレバだけど)。余談ながら、一時期ノベル版のゴーストライター説を目にしたことがあったのだが、あそこまでヘタクソなゴーストライターがいるわけはないし、もしいたとしても1巻が出る前にクビになっている、と筆者は信じる。

そのちょっと前の88年は、上で少し触れた機動警察パトレイバーの連載開始の年で、かつ魔神英雄伝ワタルの放映開始の年でもある。いわゆる「ファーストガンダム(79年~)の次」が、イデオン(80年~)、ダグラム(81年~)、マクロス(82年~)、ボトムズとダンバイン(83年~)、Z(85年~)と着地できないままでいて、なんとかオチがついたのがこの2つと翌年の0080なんじゃないかと思う。こう考えると、ファーストガンダムで示されたコンセプトが安定した形に落ち着くまで10年かかっている(落としどころがないままさまよっていた)ことになる。さらにその直近にD&Dの商業訳(たぶん85年)やドラクエ(86年~)のブームがあったのも興味深い。AKIRA(82年末連載開始、映画は88年)とブラックマジック(初出は83年らしい:OVAは87年だからAKIRAの映画より早い)の間は、アイディアの継承を想定するには時間的に近すぎる気もするのだが・・・アップルシードやドミニオン(どちらもOVAは88年)と合わせて商業化されたのが85年で、やはりこの10年くらいの動きは熱い。なお同時期のジャンプ系コミックだと、キン肉マンが79年、Dr.スランプが80年、北斗の拳が83年、ドラゴンボールが84年、男塾が85年、ジョジョが87年の連載開始。

戦記もののコミックでは、蒼天航路、皇国の守護者、キングダムあたりが面白い。蒼天航路はアニメが酷かったが、コミックは初期のスタンスが定まらない描き方や後期のやり過ぎ路線も含めて秀作だと思う。長坂のあたりが印象に残っている。皇国の守護者は尻切れになったが、アレが最善の形のひとつだったように思う。落としどころを見つけて引き伸ばしたとしても、いいことはなかったんじゃないか。短いながらも面白いコミックにはなった、という評価の方がしっくりくる。キングダム(原作のほうも、まさか途中からZガンダムが始まるとは思わなかったが、それはさておき)もアニメが酷いよねぇ。「なんかよくわかんないけど大騒ぎ」と「なんかよくわかんないけど大成功」をアテもなく繰り返すだけで、あれなら(コミックの表現をアニメでも再現しようという(努力は見られないけど)意図は見えるだけ)蒼天航路の方がまだマシだと思う。とくに台詞、読めてないのは仕方ないとして、ピッチでもタイムでもフォルマントでも、イマドキは後から直せるんだから、せめて(聞き苦しい声をことさらキンキンカリカリにチューンする暇はあるんだから)丁寧に直しとけばいいのにと思う。

皇国の守護者のコミック版の作者が描いたシュトヘルとか、プラネテスの作者によるヴィンランド・サガ(これもアニメ版がねぇ・・・後でまた触れる:ほとんど実家暮らしに近い生活になって、自前じゃないけどテレビが復活したので、遅い時間にはけっこうチャンネル回してる)とか、歴史ものっぽい体裁に現代的な理屈をムリヤリぶっ込んだ感じのものも、一時期よく見た。名前を挙げた2つは佳作だと思うが、この手法自体はやっぱり危うい。時代劇をやっているところに現代の常識を貼り付けることで、もちろんそれが遠い未来に「是」に変わることを読者は知っており見せ掛けの説得力みたいなものは生じるのだろうが、「今現在の私たちは正しい」という認識を出発点に「正しいことをなす人」を描いてしまうと、どうしても息が切れる(いわゆる勝利者史観の押し付けにしかならない)。その点で言えば、セスタスみたいな余計なモノを持ち込まないスタイルは賢いやり方なのかもしれない(この作品はアニメ版も割り切った作りというか、お金がないので安上がりな方法で動いたことにします、と開き直ったようなところがある)。歴史考察に大きく振ればそれで面白いコミックになるかというと・・・センゴクなんかは最初のうち「おっ」と思ったが、へうげものや蒼天航路なんかと比べると、コミックとしての背骨の部分に少し弱みがあるのかなという印象を受ける。

その他いろいろ。宇宙船サジタリウスもちょっと惜しかったというか、ルパンみたいな定番モノになれるチャンスはあったんじゃないかと思う(まあその時その時の都合とか事情とかはあるんだろうけど)。スポーツものは積極的に探してまでは読まないが、印象に残っているものというと、ジャイアントキリング、SUGARとRIN、黄金のラフ、capetaあたりか。野球マンガが嫌いなわけではないが、いろいろありすぎてこれがというものを挙げにくい。ラストイニング、砂漠の野球部、ジャイアント、ストッパー毒島あたりがぱっと浮かぶ。スポーツの範疇に入れていいのかどうかわからないが、THE MOMOTAROHはけっこう好き。スラムダンクにこれといった思い入れはないが、先がわかってても読み出すと止まらないね、あれ。作者の技量が高いってのは、そういうことなんだと思う。

アメリカのコメディは面白いものがポツポツある。ぱっと思い浮かぶのは、アーノルド坊やは人気者(Different Strokes)、スピンシティ(Spin City)、ダーマとグレッグ(Dharma & Greg)あたり。ビッグバンセオリー(The Big Bang Theory)は、わざとらしさとこれ見よがしが鼻に付いて見る気になれなかったが、字幕で見たら面白かった(作り手の側が途中で「ペニーの面白さ」に気付いてさらにキレがよくなる)。この手の「生き生きした変人が活躍するコメディ」は、アメリカのお家芸といっていい。復活の兆しがあってよかった。イギリスの事情はわからないが、少なくとも日本にはいいコメディが入ってきていないようで、ちょっと寂しい(モンティパイソンの国にコメディを生む下地がないはずが・・・と思ったが、日本のことを省みたらんなこと言ってもいられないか)。

もとのテレビ番組は2015年放送らしいのだが、フランスのCGアニメMiraculous, les aventures de Ladybug et Chat Noir(ミラキュラス レディバグ&シャノワール)というのが非常によくできている。あらゆるところがよくできすぎていてキモチワルイのと、いろんなものを盛大にパクリまくっていて気忙しいので、みていてとにかく落ち着かないのではあるが、しかしこれはよくできている。人・物・金に技術・場所・時間と、使うべきものをしっかり使った、製品としてのアニメーションのひとつのピークだといえるかもしれない。それがあんなにも居心地悪さをもたらすのは、たんに筆者が不慣れな観賞法だからというのでなければ、製作者の作為が(作品を素通りして)視聴者に直接向いているからだと思う。第四の壁と作用の直接対象、どちらに接近しすぎても、無用な疲労とストレスを引き起こすのだろう。もうひとつの「せわしなさ」としてもしかすると、金銭的な問題があるのかもしれない。商品が売れることを目指すのはもちろん自然なことだが、予算をかけた作品への「投資を回収しなければならない」というプレッシャーが過剰になり、制作者が極端な方針に振られがち(というか何事につけても「やりすぎ」のラインを踏み越えてしまいがち)になったとしたら、かえって投資のリスクが増すことになろう(そしてその失敗経験により出資者はさらに萎縮し、客は離れ、制作がますます窮屈になるという悪循環が起きる)。もう一方で、ディズニーとルーカスフィルムが2008年から作っているスターウォーズの3Dアニメは、クローン・ウォーズ(The Clone Wars)、反乱者たち(Rebels)、レジスタンス(Resistance)と、回を重ねてなお酷い出来だったのだが、技術的な手軽さがあるのかソフトウェアのライセンスの問題なのか、模倣的な作品が出てきているようだ。ディズニー自身はさらに、模造品たちを置き去りにしたまま、第4作バッド・バッチ(The Bad Batch)でディズニー系の他のCGアニメから技術を導入して、穏やかな方向転換をしたようだ。

NHKが流していたガンダムCDA(若き彗星)のアニメは、なかなか画期的だと思う。絵を動かす、台詞を読む、脚本を書く、そういう「技術がまるでない」ことをちゃんと前提に繰り入れて、そのうえでアニメーションっぽいものをデッチ上げるチャレンジが、一定程度の成功をおさめている(原画の人が頑張って、あとは動きを減らしまくって誤魔化す、とかいった単純なカラクリではないような気がするが、案外そんな話だったりするのかなぁ?)。とくに動画の部分、本当に動かさなきゃいけない絵というのは実はそんなに多くなくて、さらにその全部が動いている必要もない、というのをしっかり形にできてるような印象(コンセプトが形になる過程としてはJojoのテレビアニメも関与が深いように見え、試行錯誤の末に第4部(3rd Season)くらいで手ごたえを掴んだのかもしれない:偶然なのか誰かの意図なのかわからないが、この手の実験ないしチャレンジにとって、原作の知名度が高いことは助けになっただろうと想像できる)。料理関連ページで「(料理なんてまるでできない人に料理らしきものを供給させることを可能にした点で)松屋とか大戸屋なんかのシステムは凄い」ということを書いたが、それに近いレベルの偉業がアニメーションの業界でも達成されつつあるのかもしれない(いっぽうで、紙芝居にデジタル技術を貼り付けただけのような、本当にお粗末なものも出ては消えている模様)。上で触れたヴィンランド・サガなんかと比べても、動画や台詞の酷さには大差ないにも関わらず、全体としてアニメーション番組っぽいものになっているかどうかに着目すると大きな差がある(基礎的なトコロの差は小さいのかもしれないが、絵を動かそうとか台詞を読ませようとか、そういう考えが最初から無謀なんだということに気付いていないか、理解はしていても実際的な対処を見出せていないのではないか)。これが新時代の幕開けを示しているのか、天才的な個人に支えられた特例なのか、いろいろな部分がたまたま噛み合った奇跡的な偶然なのか、なかなか興味深いところ。


素晴らしいサイトを発見(余談のオマケ)

ゲーム関連でちょっと調べものをしていたらかにかにクラブというサイトを発見。ベラボースイッチの細かい動作を初めて知って、ちょっと感動したので外部リンクを掲載しておく。


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