ゲームに関する余談

例によってとりとめなく


似てるゲーム

仮面ライダー倶楽部 激突ショッカーランド(1988年2月)と半熟英雄(1988年12月)とか、超兄貴 爆烈乱闘篇(1995年9月)と初代サイキックフォース(1996年4月)とか、偶然にしてはソックリなゲームがけっこうあるが、開発者(というか元請け?)が同じだったりとか、そういう事情でもあるのだろうか。


イメージするもの

チャンバラのイメージは正直あまり具体的でないのだが、実写映画(イギリス製のローマ物とか昭和末の大河ドラマとか)が近いかなぁ。魔法戦闘はゲームの方が印象が強くて、ドラゴンバスターとかワルキューレの伝説とかハイドライドとか、便利トリックや奥の手的なイメージ。ファイアーボールに関してはソロモンの鍵のファイアーボールこそまさにファイアーボールだと思う。あの爽快さと不便さと頼もしさはなにものにもかえがたい。カプコンD&Dの魔法もカッコイイ(マジックミサイル大好き)と思うが、正直あれはちょっとやりすぎだった。やっぱりMP制より回数制の方がオモシロイなぁ。

機動兵器はヴイナス戦記(最初のタコの後〜最後のタコの前あたり)、人型兵器はボトムズ(クメン編とか)とメロウリンク(前半)、サイボーグや暴走アンドロイドはアップルシード(コミックと最初の映画)とブラックマジック(OVA)ってとこかなぁ。ブラックマジックのアンドロイドの動き、今見ても凄いよねぇ。バトルテック(アーケード)の印象は(あんなにやり込んだのに)なぜか薄く、メックウォーリアーみたいなバッタ系のイメージもそんなにない。

筆者の理解だと、兵器には「運用可能な最大戦力」を重視するものと「コストパフォーマンス」を重視するものがある。2013年現在の主力戦車や戦闘機のような「大規模運用でスケールする」兵器は、前者を重視しつつ後者を一定レベルまで引き上げたもので、容易には無視できない優位性を持つ。これらを脇役に押しやるなら「大規模運用できない理由」が欲しいところ。サイバースペースを比喩表現する必然性はあまり感じない。未来都市については「極端な効率化と分業」「人口の自然減少」「動機を持たない人々」といったあたりがキーワードになるか。


WizardryとUltima

ウィザードリィとウルティマは発売年が同じ(1981年、どちらもAppleII:Unixで動くRogueの方が1年早く発表され1980年)だが、それぞれもっと前に試作品(WizardryとPaladin、Akalabeth)があったらしい。日本でのFC版はどちらもちょっと変。ウィザードリィはFC版が1、3、2の順に変更され、ウルティマは3だけ出た。どちらも4以降イキナリ作風が変わる。

ウルティマは3(1983年、日本版は85年)もけっこう違い、地下が線画3Dなのは同じだが、地上戦がシンボルエンカウント方式になった(カリーンの剣やロマンシングサガなどに引き継がれた)。乗り物やワープなども3が初出のはず。いっぽう1と2の地上戦(ドツキ合い方式)は、ハイドライド(初代PC88版が1984年)やワルキューレの冒険(船はスキーズブラズニルなんだろうなと思うが、クジラはいったい何なのかいまだに不明)やゼルダの伝説(ともに1986年)に引き継がれ独自に発展する(ワルキューレやゼルダには84年のドルアーガの塔なども影響していると思う)。


妖精と精霊の由緒

オーガはゲルマン由来らしく、フランスあたりではやや小型で愚鈍かつ臆病、赤子を攫って生肉を食べる残忍な種族とされていたようだ。北欧では山の中に独自の文明を持つ金持ち種族だったらしい。トロールは「毛が生えた巨人」が基本線だが、北欧では小型の種族で、盗みや神隠しを起こす一方気に入った人間には肩入れするなど気まぐれな性格、オーガとの習合もみられる。どちらもゲルマン系の妖精に多く見られる高い変身能力を持つ。

ケルト神話のプーカからイギリスのパック、さらにイングランドの一部で愛称化しピクシーとなる系譜は、トリックスターの性格を持ち、地方バリエーションが多い。プーカの時代は妖怪や物の怪の性格が強かったようで、姿も変えるが牛・馬・山羊など大型草食哺乳類への変身が多い。日本の昔話に出てくるような「人知を超えた力、朴訥さ、気まぐれ気まま」などを特徴とする存在。イギリスでは変身のバリエーションが増えるとともに悪戯好きの性格が強調され、森林信仰とも集合して緑衣に、ピクシーには貧乏人の手伝いをするという要素も付帯している。

ハッグとレッドキャップはどちらもイギリスのアンシーリーコート(Unseelie Court:直意は「祝福されない者たち」で、積極的に人に危害を加えるという趣旨)で、前者は日本で言う山姥や鬼婆、後者は人が多く死んだ場所でさらに死者を増やそうと人を襲う。さすがに指輪物語とD&Dの国だけあって、有名な妖精が多い。

その指輪物語で話がややこしくなったオークは、ローマ神話のオルクス(Orcus:ハーデースの別名)由来と見られるオークナス(Orc-neas:オルクスの死者)がベオウルフ(トールキンの現代英語訳が2014年に出版されたそうな)に登場する一方、おそらくオルカ(orca:現在でもシャチの学名(Orcinus orca)として残っている)に由来する海の怪魚としても伝承されている。「恋するオルランド」「狂えるオルランド」「ローランの歌」「モルガンテ」などから成るシャルルマーニュ系の伝承には後者のオークが登場する(とても丈夫な鱗があったそうな)。トールキンのオーク(ホビット語でゴブリン:だと後付けされた)は別個の創作で名前だけ借りた、と本人が言っていたらしい。他の種族が堕落してオークになるという設定が特徴。

フェアリーという語は北西ヨーロッパあたりの「神様でない想像上の種族」を指す漠然とした名称で、ブリトン族(ケルト人の一派で、鉄製武器や戦車を用いた)の伝承にフェアリーが冷たい鉄を嫌うという特徴があることから、ケルト侵入以前の文明由来、あるいは非征服民そのものではないかと言われる。これらの古いフェアリーは、人と同じかやや高い身長とされることが多い。定義が緩くなるのも根拠を失った伝承の特徴で、ウィルオーウィスプやケットシーなど人型でないものもフェアリーに含まれる。さらには(キリスト教から見た)異教の伝承として禁忌的なイメージも付帯するようになる。フェアリーが行う悪さとして取替え子が多く伝承される。

ドワーフというのもまたややこしく、おそらくは北欧神話の妖精ドヴェルグ(Dvergr:トロールと同様日光に弱く、一部習合もみられる)由来なのだろうが、英語だと単に小人(や転じて矮性植物)のことで、ドイツのグリム童話「白雪姫」のsieben Zwergeがseven Dwarfsと訳されたりしている。トールキンのドワーフはまた毛色が違い、複数形がdwarfsではなくdwarvesと表記されている。ドヴェルグは短寿命な腕だけ長い小人だとされることが多く、3歳で成人だとか女性が存在しない(石から作る)だとかいった伝承があるそうな。トールキンのドワーフはより人間に近い種族で、女性もいる(ヒゲは両性に生える)。北欧神話の一部(「スノッリのエッダ」)にドヴェルグを「闇のエルフ」ないし「黒いエルフ」とするものがあるが、この呼称が一般的なものだったかどうかは不明。

同じ「地下に住む器用な小人」としてはノームもおり、こちらはギリシア語のゲノーモス(Genomos:地中に住むもの)が語源で、男性形がグノーム(Gnom)、女性形がグノーメ(Gnome)らしい。パラケルスス(16世紀に薬学(毒性学)の分野で業績を残したスイス出身の軍医・錬金術師)に四大精霊扱いされ、かつ男性女性形に混乱が生じた。なんでも、元の著作は「ニンフ、シルフ、ピグミー、サラマンダー、その他の精霊についての書」(Liber de Nymphis, Sylphis, Pygmaeis et Salamandris et de caeteris Spiritibus:俗称「妖精の書」)というタイトルで、3番目のピグミーの別名(ラテン語名)がGnomusだと説明される。同様にニンフの別名がUndina、シルフの別名がSylvestris、サラマンダーの別名がVulcanusということになっている(そうな)。ピグミー自体はギリシア神話のピュグマイオイPygmaioi由来で、大プリニウス(1世紀に活躍したローマの博物学者・軍人)が「博物誌」(Naturalis Historia)で「身長3スパン(約27センチ)ないしそれに満たないくらいで、泥の家ないし洞窟に住み、弓矢で武装し、ツルと戦っている」と説明しているらしい。

エルフは北欧神話由来で、スカンジナビア系の諸族を中心にゲルマン全体に信仰が広がっていたと見られる。地方神ないしギリシアのニンフのような存在だったのだろう。神話の体系上はフレイが光のエルフを率いることになっている。スカンジナビアのエルフ(古ノルド語のa'lfrから派生した綴りで表記される)はバリエーションが多く、一部には(昆虫翼を持った小人型の)フェアリーとの習合も見られる。時間の感覚を狂わせるというエルフの踊りは、浦島太郎の童話と似ているかもしれない。大地に住む妖精ヴェッテル(vetter)と習合した地域と分離したままの地域がある。病気と治癒に関する特性もこの時期から得ていたようだが、ギリシアのアポロンのような豪快なものではなく、おそらくはニキビができて治る程度のささやかなものだったと思われる。ドイツではドワーフとの習合が進み、「ニーベルンゲンの歌」にはアルベリッヒ(Alberich:エルフ王)という名前のドワーフが出てくる。Alberichの名はフランスのAlberonを経由してイギリスのOberon(「夏の夜の夢」に出てくるエルフとフェアリーの王)になったという。病気や悪夢を引き起こすという性格がより強調された。イギリスのエルフはいろいろと入り混じりながら変遷しており、大まかにはニンフ的なイメージから残虐で悪どいイメージを経てフェアリーと混同されるような感じだろうか。

イギリスのゴブリンとドイツのコボルトは特徴が似ており、どちらにもバリエーションはあるが、おおむねは地下(や洞窟)に住む小鬼である。ドイツ語のKoboldを(英語読みせずに)goblinと訳すことがある。指輪物語で付与されたトールキンのオークのホビット語訳としてのゴブリンのほか、トロールやドワーフやノームなどのイメージがごちゃごちゃに混ざっているように見える。D&Dのコボルトはドラゴンの血を引く爬虫類で犬の「ような」顔をしているだけだった。ホブゴブリンはD&Dでゴブリンの大型種になったが、もとは座敷わらしのような(悪どいときでも悪戯メインくらいの)存在だったらしい。


アニメとコミックの話(余談の余談)

劇場版のイデオンはやっぱり傑作だと思う。作品を丸ごと崩壊させ、たわ言と現実逃避と茶番に発散させた手法は芸術の域と言っていい(が、二番煎じをやって面白おかしいようなものではないと思う)。この頃は音楽や挿入歌の類にも独特の輝きがあって、おそらく当時あまり儲からない商売だったジャズとかフュージョンの人たちが演奏しているのだと思われる。とくに、日本昔ばなしのオープニング(リメイク版じゃなくてテレビ版)のエレキベースとか、コスモスに君との終盤のリズム隊なんかは凄い。歌モノだと「めぐりあい宇宙」のオープニングとか、テレビ版ボトムズのオープニングやエンディングが凝った構成。

逆襲のシャアはたしかに佳作で、非の打ち所がないように見えてちゃんと大ポカをやっているあたりもポイントが高い(最後の最後でアクシズを押す方向が逆で、後ろ半分がブレーキかけられて失速しそうだってメランさんが教えてくれてるのに、みんな聞いてなさすぎ:だいたい「割ったら落ちない」って理屈(普通に考えると、アクシズが落ちる代わりに「割れたアクシズ」が落ちるだけだと思う)がどこから出てきたのか不明で、ブライトさんの「軽くなって落ちないはずだ」という謎発言(普通に考えると空気抵抗が増して失速しやすくなるはず)などもあり、作戦立案の時点で根本的な勘違いがあったとしか思えない)。パトレイバーは最初の映画まで文句なしに面白かった。コミックとアニメと映画が揃ってハイクオリティな作品というのは珍しいんじゃなかろうか(映画の「2」はあまりにも酷かったけど)。あーるはコミックのイメージが強いが、やっぱりTV版も捨てがたい。

マクロスの本編はわりとどうでもよかったりするのだが、映画のエンディング(天使の絵の具)は凄いよねぇ。あのイントロでミンメイが動いてるシーンだけでも作品として成立するんじゃないかと思える。メディアミックスだかタイアップだか、安直化が進んだ続き物と違って、アイドルを1人でっち上げてやろうという心意気みたいなものが初代のマクロスにはあったと思う。同時期のZガンダムも本編はなんかグダグダだったように思うが、後半のオープニングムービーは素晴らしかった。アニメではないがNHKの人形三国志(これは本編も前フリも秀逸)のエンディング(愛のテーマ)も、細野晴臣らしい緻密な編曲とヤケクソな歌詞が印象深い(作者が細野さんだということは随分後で知った)。ヤケクソな歌詞というと、ドラクエ2のネームエントリーの曲(「ラブソング探して」だっけ?)の歌詞もかなりのモノである(歌詞の存在自体を20年間くらい知らなかった)。

しかし昔のタツノコの絵ってやたらアメコミっぽいのが混じってる気がするのだが、どういう事情なんだろうなぁ。タツノコのアメコミ絵といえば、ゴールドライタンのショッキングさがたいへん印象深い。初手が犬の凶暴化という謎作戦だったウヨッカーが、二の矢として簡単に制圧した原発建屋内を武装したメカで徘徊、主役メカ(?)のゴールドライタンはというと、カニ挟み、蹴手繰り、五本抜き手という地味コンボでウヨッカーのメカを瞬殺、(原発の敷地内で)爆発炎上という、第1話だけでおなかいっぱいクラスのネタアニメだった。

ジブリの作品で印象に残っているのはやはり「耳をすませば」で、近藤喜文が凄いのか高坂希太郎が凄いのか見ている側にはサッパリわからないが、オープニングからして絵に「匂い」がある。物語の中盤で主人公(雫)が影の中にふっと消えるシーンなんかはまさに極上のアニメーションだと思う。それが荒唐無稽なシナリオ(元は少女マンガらしい)とオーバーアクションな演出(アリーマイラブなんかで踏襲され一般化したが当時は斬新だった)とあいまって、意味がわからないほどの不思議ワールドを作り出している。

メカアニメのテレビシリーズで全部見たのはBlue Genderが最後だったか(ギリギリ2000年にかかってるはず:人生でテレビを持ってた期間が10年もなく、たまたまそこに当たっただけで、とくに思い入れがあるわけではない)。ボトムズのリメイクだと思うとちょっと違うし、登場人物が大騒ぎしすぎでうっとおしいのだが、これはとにかく犬死にのアニメである。1話丸々かけてやっとの思いで助かった人たちが簡単かつ無意味に死ぬ、数話がかりで追い詰めた敵役がチャカ1発弾かれて死ぬ、何の意味もなさそうなところで安全軽視な人たちが事故で死ぬ。そのサイクルを大規模化させながらエスカレートさせていって、最後に盛大なちゃぶ台返しをやって終わりという、なかなかに爽快な作品だった。

テレビ版の砂ぼうずは普通に面白かった。原作は未読なのだが、少なくともアニメ版は「人の思惑の乖離」みたいなものをちゃんとキープした脚本で、登場人物がひとり残らず、救いようがないほどの「勝手なロジック」を一貫して固持している。とくに夏子を「いじけたトチ狂い」のままで通したのは秀逸で、他の登場人物同様「自分のロジックを固持するがゆえにフェードアウト」してゆく(フェードアウトしないのは、固持するべきロジックが希薄な三兄弟、ロジックに開放性のある朝霧純子と柔軟性のある小砂くらい、主役であるはずの砂ぼうず本人までロジックの固着でフェードアウトする)。終盤で砂ぼうず(灌太)が小砂(太湖)を勧誘するシーン(灌太は松波さんの「口止め」を指示しただけで「殺害」は意図していないはず)など、映画フルメタルジャケットでジョーカーがヘルメットのサインについて「これは二律背反する・・・」と口ごもるシーン(ジョーカーなら「ベトコンを皆殺しにして平和を勝ち取ります」と言えたはずだし、おそらく普段言っていたはず)さながらの「読ませ」の演出もある。

戦記もののコミックでは、蒼天航路、皇国の守護者、キングダムあたりが面白い。蒼天航路はアニメが酷かったが、コミックは初期のスタンスが定まらない描き方や後期のやり過ぎ路線も含めて秀作だと思う。長坂のあたりが印象に残っている。皇国の守護者は尻切れになったが、正直アレでよかったんじゃないかねぇ。落としどころを見つけて引き伸ばしたとしても、いいことはなかったんじゃないかと思う。短いながらも面白いコミックにはなったのでよかったんじゃないか。キングダムもアニメが酷いよねぇ。「なんかよくわかんないけど大騒ぎ」と「なんかよくわかんないけど大成功」をアテもなく繰り返すだけで、あれなら(コミックの表現をアニメでも再現しようという(努力は見られないけど)意図は見えるだけ)蒼天航路の方がまだマシだと思う。


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